徳川家茂の死因は虫歯?脚気?それとも暗殺?徳川14代将軍の最後の姿を解説!

徳川家茂の死因は虫歯?脚気?それとも暗殺?徳川14代将軍の最後の姿を解説!

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徳川 家茂1846年(弘化3年閏)〜1866年(慶応2年) は、徳川御三家の紀州藩第13代藩主から、江戸幕府第14代征夷大将軍に就任した、江戸幕府最後から二番目の将軍です。
しかし、将軍就任からわずか8年、若干20歳という若さで急死をした徳川家茂の死因は、意外にも虫歯だったという説や、脚気、または暗殺だったという説もあり、死については謎が多い人物です。

徳川家茂の死因は、一体何だったのでしょうか?
今回は、徳川家茂の死因について、虫歯説・脚気説・暗殺説それぞれの説について解説してきます。また、徳川家茂の最後の姿なども見ていみましょう。

徳川家茂の死因は虫歯?脚気?それとも暗殺?

徳川家康家茂は1866年(慶応2年) 7月20日、第二次長州征伐の途中、20歳という若さで急死します。その死因にはいくつか説があり、大の甘党だっことから虫歯が死因となったという説や、脚気が悪化した説、暗殺されたなど様々です。

徳川家茂の死因は虫歯?

徳川家茂の、意外と言える死因の一つが虫歯です。徳川家茂は大の甘党だったと言われています。
好んで食べていたのが、ようかん、氷砂糖、金平糖、カステラ、懐中もなかなど。
どれも砂糖をたっぷりと使用した、甘いものですね。。。

徳川家茂の頭がい骨を調べると、現存する31本の歯のうち、30本が虫歯だったようで、甘い物を食べ過ぎて虫歯が進行したと思われます。中にはかなり進行が進んでいた虫歯もあり、通常時でもかなりの激痛があるくらい酷い虫歯だったようです。

虫歯は、放置すると虫歯菌が血液に侵入し、血管を通じて全身に回ります。万が一、虫歯菌が脳に回れば脳梗塞を引き起こし、心臓に回ることで心筋梗塞を引き起こすのです。最悪、命を落とすような事態にもなりかねないようで、あまりに酷い虫歯が原因で、徳川家茂の身体に命に関わるような重大な症状が出ていたのかもしれません。

徳川家茂は、虫歯になりやすい体質だった

徳川家茂がいくら甘いもの好きといっても、ここまで虫歯がひろがったのは産まれつきの身体の問題もあったようです。徳川家茂は歯のエナメル質が極端に薄い、虫歯になりやすい体質だったと言われています。
甘い物を常に口に含んでいると口の中は常に酸性になり、硬いエナメル質を溶かしてしまい、虫歯になるようです。
エナメル質は歯冠の一番外側、表面を覆う部分で、人体の中でもっとも硬い組織です。個人差はありますが、エナメル質の厚みはだいたい2~3ミリ程度と言われています。
徳川家茂はこのエナメル質が極端に薄く、そのことが虫歯を酷くさせた要因だったと言われています。

徳川家茂の死因は脚気?

徳川家茂の死因と考えられているのは、脚気による死因説です。

脚気とはビタミンB1が不足することで発症する病気で、疲れやすい、食欲不振、倦怠感などの症状が現れます。神経や心臓に症状が現れることもあります。そして、最後は心臓麻痺を起こして死ぬという恐ろしい病でした。
原因のひとつに、偏った食生活にあります。
ビタミンB1は糖質からエネルギーを取り出すために必要なビタミンなので、甘いものをとりすぎると不足してしまいます。
徳川家茂は甘い物が大好物で虫歯も酷かったので、かなり偏った食生活を送っていたと思われます。
また、虫歯の進行が家茂の体力を奪い、脚気が悪化したとも言われており、死因と考えられている虫歯と脚気が密接に関連しているように思われます。

徳川家茂は、死の3か月前頃から胸の痛みを訴え、その後脚の腫れがひどくなり、座ることも出来なくなったようです。症状な日増しに悪化し、大阪城滞在中に亡くなりました。
症状や経過から脚気が死因と考えられるのですが、当時は診断や治療方法も分かっておらず、漢方の典医は脚気との診断を下しましたが、西洋医の幕府奥医師達はこれをリウマチだと譲らなかったため、この判断ミスが結果的に徳川家茂の命を奪うことになったのではないかと言われています。

徳川家茂は暗殺された?

徳川家茂の死因として考えられているのが、暗殺説です。そして、暗殺者として名前があがっているのが、徳川慶喜を将軍にしようとする一橋派です。
徳川家茂は死の間際、次期将軍に田安亀之助(後の徳川家第16代当主・徳川家達)を指名しましたが、次期将軍に決まったのは徳川慶喜でした。

この徳川慶喜との後継問題は、徳川家茂が将軍候補になった時から始まっていました。
井伊直弼を中心とした南紀派が推した徳川家茂と、水戸藩の9代藩主 徳川斉昭の一橋派が推した一橋慶喜(徳川慶喜)が候補として挙げられ、両派の間で熾烈な争いが繰り広げられたのです。

やがて、南紀派の井伊直弼が将軍に次ぐ最高職である大老に就任し、幕府における井伊直弼の発言権が強まり、徳川家茂が14代将軍に決まりました。
しかし、徳川家茂は当時まだ13歳と幼かったため、将軍後見人として田安徳川家の5代、及び8代当主であった徳川慶頼が任命されます。
ところが、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺され、徳川慶頼は将軍後見職を罷免され、121代孝明天皇の意向が汲まれた形で、一橋慶喜(徳川慶喜)が15代将軍に就任することになったのです。

このことから、一橋派が一橋慶喜(徳川慶喜)を将軍にするために、徳川家茂を暗殺したのではないかと言われているのです。しかし、そのことを証明する証拠が存在しないことから、あくまでも噂であるようです。

徳川家茂は毒殺されたと信じた「天璋院篤姫」

徳川家茂の養母である天璋院篤姫は、家茂が一橋慶喜(徳川慶喜)によって毒殺されたと信じ込んだようです。
しかも、夫の徳川家定を毒殺したのも、徳川慶喜を擁する一橋派の仕業だと思いこんだようです。

徳川家茂の遺体が江戸に戻ってきた時、その顔は毒を盛られたかのように黒ずんでいたと言い、天璋院は家茂までもが慶喜によって毒殺されたのだと思い込み、「家茂が毒殺されたことを家訓として子孫代々に伝えよ」と言い伝えていたそうです。

徳川家茂の最後の姿

徳川家茂は、長州征伐の途中に大坂城滞在中、胸痛を起こし倒れます。一旦快方に向かいましたが、再び同様の症状になり、さらには胃の不具合を発しました。次第に両足が水ぶくれで腫れ、嘔吐も酷かったようです。

徳川家茂の容態を心配した天璋院と妻の和宮から漢方医が派遣されてきましたが、明らかに脚気の症状だったのですが、蘭方医を好む家茂は、漢方医の診察を拒否したと言います。

亡くなる数日前に家茂と対面した徳川慶喜が、「手足が相当腫れている」と残しています。

徳川家茂は、死の前日にはもう対面できる状態ではなく、夜が明けた1866年(慶応2年) 7月20日の午前7時頃、20年という短い生涯を終えました。

徳川家茂の遺体はどこへ?

徳川家茂の遺体は、大阪から海路で江戸に送られ徳川家の菩提寺である増上寺に埋葬されました。

徳川家茂が亡くなったのが1866年(慶応2年) 7月20日、しかし幕府は家茂の病気を伏せており、死を1ヶ月公表しませんでした。
1866年(慶応2年)の第二次長州征伐では、薩摩藩が長州藩と手を組んだため苦戦を強いられた幕府は連敗を重ね、一橋慶喜(徳川慶喜)は休戦協定を取り付けた状況でした。

そんな中、慶喜は次期将軍に要請されましたが、これを拒否しました。
しかし、徳川家にはもう慶喜以外に人材はおらず、幕府は一橋慶喜を徳川宗家にするため、家茂死後の1ヶ月後の8月20日に喪を発しました。

1958年(昭和33年)から1960年(35年)に増上寺の墓地改葬で、家茂は月代を剃っておらず、若々しく豊富な髪の持ち主であったということがわかっています。また、虫歯の度合いが酷く、残存する31本の歯のうち30本が虫歯にかかっていたといいます。身長は156.6cm、血液型はA型だったと言われています。

徳川家茂の写真が和宮のお墓の中に?

1958年(昭和33年)〜1960年(昭和35年)の増上寺の墓地改葬の際に、家茂の妻・和宮の墓の中から家茂と思われる男性の肖像写真が発見されています。

それは、湿板写真と呼ばれる一枚のガラス板だったそうです。しかし、発掘担当者はそれが湿板写真だと気づかず、翌日に詳しく検証するつもりで持ち帰ったのだそうです。持ち帰った湿板写真を整理している時に、ガラス板に何かが写っているのを発見しましたが、そのまま放置したため、湿板写真に写っていた画像は消え、ただのガラス板になってしまい、写真の判別ができなくなってしまいました。
写真の男性は烏帽子えぼし直垂ひたたれの若い男性であったことから、徳川家茂なのではないかと言われています。

和宮は徳川家茂と結婚する前、有栖川宮熾仁親王と婚約していましたが、和宮の兄である孝明天皇や、幕府からの強い要望により、婚約を破棄されており、写真の男性が有栖川宮熾仁親王ではないかという説もあるようです。

しかし夫婦仲も悪くなく、和宮は家茂の死をたいそう悲しみ、自身が亡くなる前に「家茂の側に葬ってほしい」と言っていることから、写真の男性は家茂である可能性が高いと言えます。

また実際に写真を見た人の話によると、「童顔で幼さを残した顔立ちだった」とのことから、まだ若かった家茂の写真の可能性が高いようです。写真は死の直前に大坂で撮影され、江戸にいる和宮に贈られたものとみられています。

まとめ:徳川家茂の死因は、虫歯が原因で加速した脚気が有力

わずか13歳で徳川第14代将軍となった徳川家茂。若くして大役を背負うことになり、激務に加え、ストレスも相当だったように思います。また将軍という立場上、庶民が滅多に口にすることができないような甘いものを食べることができたことが、死因となる虫歯や脚気を引き起こし悪化させたというのも、納得できます。
今回の内容をまとめると、

  • 徳川家茂の死因は、酷い虫歯が原因で脚気が悪化したという説が有力
  • 徳川家茂は甘いものが好きで、現存する31本の歯のうち、30本が虫歯だった
  • 徳川家茂は、虫歯になりやすい体質だった
  • 徳川家茂の義母にあたるは、徳川家茂が徳川慶喜や一橋派によって暗殺されたと信じていた

脚気の直接の要因となった虫歯がここまで酷くなったのも、そのストレスを発散するためだった可能性もあり、結果そのことが命を縮めてしまったのかもしれませんね。

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