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石田三成の子孫の現在は?家系図で簡単に解説!子孫には将軍家や天皇も?

石田三成(1560(永禄3)〜1600(慶長5))は、安土桃山時代に活躍した武将です。豊臣秀吉の家臣として秀吉のことを支え、その死後も豊臣家を五奉行として支え続けました。

石田三成自身は関ケ原の戦いの敗戦を受けて処刑されてしまうのですが、その子孫は現在まで続いているのでしょうか?

この記事では、石田三成の家系図を見ながら、その子孫について簡単に解説していきます。

石田三成の家系図をわかりやすく解説!

石田三成の家系図

石田三成の家族構成は?

【石田三成のプロフィール】

石田三成(いしだみつなり)

1560年(永禄3年)〜1600年(慶長5年)/享年:41歳

出身地:近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田村)

父:石田正継

母:瑞岳院

妻:皎月院

子:重家、重成、佐吉、山田勝重正室、小石殿、辰姫

石田三成は、1560年(永禄3年)に、近江国坂田郡石田村にて石田正継と瑞岳院の次男として誕生しました。幼名は佐吉と言います。

14歳の時、豊臣秀吉と出会い、そこから生涯をかけて豊臣家に尽くすことになります。
そして、その後皎月院という女性を正室に迎えました。

皎月院との間には3男3女をもうけました。
石田三成には他にも側室がいたり、その側室との間に子供がいたという噂もありますが、正確な資料は見つかっていないようです。

石田三成の子孫は現在も続いてる?

石田三成は関ヶ原の戦いで敗北し、捕縛され処刑されてしまいました。普通武将が処刑されるときは、その子どもたちも一緒に何かしらの処分がくだることが多いです。
それでは、石田三成の子どもたちはどうなったのでしょうか?

石田三成の子孫は現在まで続いています。現在の当主は15代・石田秀雄氏。三成の長男・重家からの流れを汲んでいます。

石田三成の子孫には将軍家や皇族も?

石田三成の子孫には、実は将軍家や皇族も存在します。
どこの流れからと言うと、次女・小石殿の流れになります。
小石殿の子・岡吉右衛門の娘は、なんと徳川3代将軍・家光の最初の側室・お振りの方となりました。

そして、家光の長女である千代姫を生むのです。
この千代姫は尾張徳川家に嫁ぎ、7代藩主徳川宗春までその血筋が続いていきます。
さらに、女系(千代姫の孫・徳川吉通の娘三千君)を通じ、九条家、二条家を経て、貞明皇后、そして現在の皇室にまで三成の血を伝えていったのです。

このように、三成の血は将軍家や皇族にまで流れていきました。

石田三成の嫡男は出家したが実は子供がいた?

先程お伝えしたように、三成の嫡男である重家は、関ヶ原の戦いの後、出家しています。
そのため、出家したのちは、当然ながら子どもはいませんでした。
しかし、実は重家には子どもがいたのです。

重家は、関ヶ原の戦い以前に既に家督を継いで妻を娶っており、その妻は子どもを宿していました。

そして、その妻は関ヶ原の戦いのあと、単身越前北の庄へと逃れ、翌年にその子を産んだと言われています。

その子・直重は、越前松平家に仕え、のちに越後高田藩に移り、そのまま藩内の妙高で庄屋になりました。しかし、父親である重家とは一度も会うことはなかったとも言われています。

そのため、重家には子どもがいないものと思われていたのも無理はない話ですね。

石田三成の子孫と小早川秀秋の子孫は時を越えて和解した?

2017年に、関ヶ原の戦いを舞台とした映画『関ケ原』が公開されました。
それに伴い、なんと、関ヶ原の戦いで戦った戦国武将の子孫たちが集まる歴史的会談が実現したことがあったのです。

参加メンバーは、

  • 石田三成の子孫「石田秀雄氏」
  • 徳川家康の子孫「徳川恒孝氏」
  • 小早川秀秋の子孫「小早川隆治氏」
  • 大谷吉継の子孫「大谷裕通氏」

関ヶ原の戦いといえば、小早川秀秋の寝返りが決定打となったといっても過言ではありません。
そのため、この4人の祖先はある意味で因縁の相手ということになるわけです。

しかし、石田三成の子孫である秀雄氏は「秀秋に恨みなどありません」と断言しています。
そして、その会談を通して4人は親睦を深めました。
このように、時を越えて4人は和解したのです。

石田三成の子どもたちは家康に見逃された?その後は?

石田三成の子どもは皎月院との間に3男3女の6人いました。側室との間にもいたという噂もありますが、正確な資料は残っていません。

ここでは、石田三成の死後、その6人の子どもたちがそれぞれどのようになっていったのか?
簡単に解説していきます。

・石田三成の長男:重家

重家は関ケ原の戦いの前年に、父・三成に代わって大阪城に出仕し、豊臣秀頼に仕えていました。
そのため、関ヶ原の戦いの開戦時には大阪城におり、そこで敗戦を知ったようです。
このとき、重家はまだ10代。
幼い子ども心に父親の敗戦はショックもあったことでしょう。
しかし、石田三成の重臣・津山甚内に促されて城を脱出し、京都の妙心寺・寿聖院に逃れます。
ここは祖父である正継が建立した場所でした。ここで重家は出家し、103歳(または104歳)の天寿を全うしたと言われています。

・石田三成の次男:重成

兄・重家とともに秀頼の小姓として、大阪城に重成もいました。
敗戦の報を受けて、同じく秀頼の小姓であった津軽信建の手引で、津軽(現在の青森県)まで逃れます。
その後、杉山源吾と名を改め、津軽氏の保護の元で静かに暮らしました。
そして、弘前藩の家老にもなり、その子孫も藩の要職を務めていきました。

・石田三成の三男:佐吉

佐吉は上の兄2人と違い、関ヶ原の戦い開戦時には、三成の父・正継、兄・正澄とともに佐和山城にいました。関ケ原の敗北後、当然のように佐和山城も東軍に攻められていました。
城に残っていた石田軍も善戦していたのですが、多勢に無勢でした。
そこで、正澄は自分の命と引き換えに城兵の命を救うように求め、正澄の臣・津田清幽(つだきよふか)が交渉して、家康の了解を得ました。

これでひとまず城兵の命は救われると思いきや、開城準備中に突然約束を破って、田中吉政・小早川秀秋軍が城内に乱入してきたのです。

正継はこれを受けて、「内府(ないふ、家康のこと)も念を入れることよ」と一言漏らし、正澄らとともに切腹しました。
この悲劇に怒った津田は、家康に生き残った三男・佐吉の助命を承知させます。
そして、佐吉は高野山にて出家し、清幽の忠義への感謝から法名を清幽と名乗り、僧として行きました。

・石田三成の長女:山田勝重正室

長女は、三成の家臣である山田上野介の子・山田隼人勝重に嫁ぎました。
3男1女をもうけましたが、ほどなく主家は取り潰されてしまいます。
その後、三女・辰姫の縁で、津軽家の扶持を受け、子孫は弘前藩士となりました。

・石田三成の次女:小石殿

蒲生家家臣の岡半兵衛重政に嫁ぎました。
しかし、重政は蒲生家の御家騒動に関与し、幕府により江戸に呼び出され、切腹処分になってしまいます。そこで、小石殿は会津を離れ、若狭国に移り住み、そのまま小浜で亡くなったと伝えられています。

・石田三成の三女:辰姫

辰姫は、秀吉の死後、秀吉の正室・おねの養女となりました。
そして、関ヶ原の戦いの後は、重成と同様、津軽家に赴き、のちに2代藩主・津軽信枚(つがるのぶひら)の正室になりました。夫婦仲は良かったようですが、結婚してから3年後に、家康が津軽家との絆を深める目的で、自分の養女である満天姫(まてひめ)を信枚の正室にあてがったのです。

そのため、信枚も幕府に逆らうわけにもいかず、満天姫が正室になり、辰姫は側室に降格となってしまいます。このようなことになっても、信枚は辰姫のことをとても大事にしており、満天姫との間に子どもができなかったこともあり、辰姫との子どもが3代藩主となりました。

以上のように、石田三成の子どもたちは家康から特に処分を受けることなく、それぞれの場所で生き延びていきました。そして、子孫も残しており、石田三成の血は脈々と受け継がれていくことになるのです。

なぜ、津軽家は石田三成の子孫を匿った?

石田三成の子どもたちの中で次男・重成と長女・山田勝重正室、そして三女・辰姫と、半分が弘前藩の津軽家にお世話になることになりました。
関ヶ原の戦いで、徳川家康と争った石田三成の子供を匿うことは、犯罪者の子供を匿うことと同じようなことで、相当リスクがあったはずです。
それでも津軽家は何故、石田三成の子供を匿ったのでしょうか?
ここでは、石田三成と津軽家の関係について簡単に解説していきます。

石田三成に津軽家は深い恩義があった?

津軽家が石田三成の子どもたちを匿った背景には、石田三成への深い恩義がありました。

津軽家当主・津軽為信は、元々陸奥の南部氏の配下でした。

しかし、津軽地方で独立を図り、秀吉の小田原征伐の折に、独立大名として秀吉に恭順します。
ところが、南部氏はそれを認めず、取次役の前田利家に、「津軽に反逆の徒がいて、殿下(秀吉)の惣無事令に違反している」と伝えてしまうのです。

これが秀吉に伝わり、違反と判断されてしまったら、最悪討伐されてしまうかもしれません。
為信は絶体絶命のピンチに陥ったのです。

ここで、為信のためにとりなしたのが石田三成です。

石田三成がなんとか為信に処分がくだらないように動いてくれたのです。

さらに、為信自身も、秀吉をはじめ、要人に鷹を送るなど心象を和らげる努力を傾けました。
その結果、秀吉から無事に本領を安堵され、晴れて正式に独立大名として認められることになったのです。

しかし、独立大名になった後も、問題は続きます。

為信の取次役は、前田利家や浅野長政が担当していたのですが、中央の武将らは地方の武将を軽んじるところがあったようで、為信はどんどんと両者と疎遠になっていってしまうのです。
取次役と疎遠になるということは、当時の大名にとっては命綱が切れることと同義でした。

このピンチを救ったのが、またしても石田三成です。

石田三成は、為信の長男・信建が元服する際に、烏帽子親を務め、さらに信建を秀頼の小姓衆として大阪城に詰めたのです。

このように、豊臣本家との深い繋がりを作ってもらったことによって、津軽家は再びの安寧を手に入れました。

上記のことがあるため、津軽家は石田三成に深い恩義を感じており、それに応えるべく石田三成の子どもたちを匿う決心をするのです。
つまり、石田三成の生前の行いが、自分の子供たちの将来を救ったと言っても過言ではないでしょう。

石田三成の子孫は津軽で忍者集団になった?

2016年(平成28年)に青森県弘前市内で忍者屋敷が見つかりました。
その忍者屋敷にはなんと石田三成の子孫であった、白川孫十郎氏が住んでいたそうです。

この忍者屋敷と石田三成の子孫はどのような繋がりがあったのでしょうか?

そもそも、この孫十郎氏は、杉山家の子孫にあたります。
この杉山家とは、石田三成の次男・重成が関ヶ原の戦いの後、弘前藩に逃げ、杉山源吾に改名したところから始まった家です。

そして、この重成の長男である杉山吉成が、1669年(寛文9年)に起きたシャクシャインの戦いにて活躍します。吉成は独自に情報収集をし、侍大将として戦場を駆け回ったようです。

この戦いの後から、今までは松前藩が蝦夷地に対する最前線基地とされていましたが、吉成の活躍により弘前藩が最前線基地という位置づけになりました。

そして、さらに守りを強化するために、この4年後に吉成は中川小隼人など甲賀忍者を召し抱え、「早道之者(はやみちのもの)」という忍者集団を作ることにしました。

残念ながら、早道之者が結成する前年に吉成は没してしまったのですが、早道之者は吉成の意志を確かに継いで、弘前藩の警護にあたったと言われています。

このように、石田三成の子孫は忍者集団を結成したわけです。

ちなみに、石田三成の祖母は甲賀の多喜家出身だとする説があります。

甲賀の多喜家というと、甲賀流忍術の中心となった甲賀五十三家を連想します。
このようなところからも、石田三成は忍者と切っても切れない縁があったのかもしれませんね。

まとめ:石田三成の子孫は現在まで続いていて、将軍家や皇室にまでその血が流れている

石田三成の子どもは、三成の処刑後になにか特別なお咎めがあるわけではなく、それぞれの人生を全うしました。そして、その子孫は代々続いていき、中には将軍家や皇室にまで三成の血が流れることになりました。

今回の内容をまとめると、

  • 石田三成は皎月院との間に3男3女をもうけた
  • 石田三成の子どもたちは関ケ原の戦いの後、処分されず生き残った
  • 石田三成の子どもたちのうち半分は弘前藩へと逃れた
  • 石田三成の子孫は現在まで続いている
  • 石田三成の子孫の中には将軍家や皇室の人もいる

石田三成は大事な場面などでお腹を下しやすかったと伝えられています。
それは、現在を生きる石田三成の子孫も同じようで、受験の日などいざというときにお腹を壊してしまうのだとか。
これを「三成腹」と呼んでいるそうなのですが、何百年も超えて同じ現象が起きるなんて、石田三成の血はよっぽど強いのかもしれませんね。

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