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平清盛と平将門の関係は?親戚?祖である桓武平氏はどのようにはじまったの?

平清盛と平将門の関係は?親戚?祖である桓武平氏はどのようにはじまったの?

平清盛(1118(永久6)〜1181(治承5))と平将門(903?(延喜3?)〜940(天慶3))は、平安時代の貴族社会に反旗を翻した武将です。
2人はともに平氏の人間ですが、生きていた時代は全く違います。
しかし、平清盛と平将門の2人の間には繋がりがあったのです。
それは一体どのような関係なのでしょうか?

この記事では、平清盛と平将門の関係はどうだったのか?親戚なのか?また、平氏はどのようにして始まったのかについて、簡単に解説していきます。

平清盛と平将門の関係は親戚?

平清盛と平将門は同じ平氏の人間です。同じ姓を持つ2人ですが、どのような関係があるのでしょうか?
ここでは、平清盛と平将門の関係について簡単に解説していきます。

平清盛と平将門の系図

平清盛と平将門は、桓武天皇を祖とする平氏の流れを汲んでいます。

平氏の系図

平清盛と平将門はいとこ?

平清盛と平将門の生きていた時代は、約200年も離れていますが、家系を遡っていくと同じ人物にたどり着きます。つまり、2人は親戚関係なのです。

2人が同じとする祖先は、平高望です。
高望は9世紀後半に臣籍降下し、東国へと下り、その地で地盤を築き上げました。
そして、国香、良兼、良将、良正らの子供が誕生しました。
平将門はこの中の良将の子として生まれたのです。

一方、平清盛の方は、国香の子孫に当たります。

つまり、2人は従兄弟のひ孫の孫という遠縁になりますが、血縁関係ということになります。

平清盛と平将門の祖・桓武平氏はどのように始まったの?

平清盛と平将門は桓武平氏と呼ばれている流派に属しています。

平氏というのは、実は主に4流派存在していたのです。

さらに、桓武平氏だけでも2つに分かれています。

ここでは、桓武平氏の発祥やそれぞれの平氏についてを簡単に解説していきます。

平清盛と平将門の祖・桓武平氏の発祥は高望王

清盛と将門の祖先は高望王(平高望)です。
平安時代の天皇は安定した皇位継承のために、多くの皇子をもうけました。

しかし、当然ですが実際に天皇になれるのは一部の皇子だけです。

そのため、天皇になれなかった残った皇子が、財政を圧迫する要因となってしまっていました。
そこで、高望王の祖父である桓武天皇は、なんと100名あまりの皇族を臣籍降下させました。

その際に、清盛と将門の祖である高望王も臣籍降下し、宇多天皇の勅命により平の姓を与えられます。
そして、臣下の身になった平高望は、上総介に任じられたのです。

上総というと、現在の千葉県に当たります。

つまり、平安京から離れていて、当時からして見れば未開の部分も多い土地です。

当時の国司は、自分の任地に赴かない遙任の制度を取る人も多かったのですが、高望はあえて息子である国香、良兼、良将を引き連れて任地に赴くことにします。

上総に移住後は、息子たちを在地の有力者の娘と結婚させ、土地の開墾に努めました。

これが、坂東平氏、もしくは伊勢平氏などとも呼ばれる高望王流桓武平氏の始まりです。

平氏は4流派あった?

桓武天皇の孫から始まったとされる平氏でしたが、「平」の氏を与えた天皇は他にも3人いたため、平氏の流派は4つ存在していました。

  • 桓武平氏
  • 仁明平氏
  • 文徳平氏
  • 光孝平氏

上記の4つが存在していました。ここでは、それらを一つ一つ簡単に解説していきます。

桓武平氏
桓武平氏は、50代桓武天皇の子孫で、平の姓を賜った家系です。
葛原親王、万多親王、仲野親王及び賀陽親王の子孫になります。
このうち、葛原親王の流れが平氏の主流となり、最も栄えることになります。

仁明平氏
54代仁明天皇の皇子である人康親王と本康親王の子孫たちの多くは、「源」の氏を賜りました。
しかし、本康親王の長子・雅望王、次子・行忠王及び四子・惟時は「平」の氏を賜りました。
その流れが仁明平氏と呼ばれているのです。
この仁明平氏は残念ながら4代程度で子孫が途絶えてしまいました。

文徳平氏
55代文徳天皇の皇子のうち、「平」の氏を賜った惟彦親王の子孫の流れが、文徳平氏と呼ばれています。
文徳平氏も尊卑分脈に5代程度の系図が残っているにすぎず、あまり長くは続きませんでした。
ちなみに、文徳天皇の流れにも、「源」の氏を賜った文徳源氏もいます。

光孝平氏
58代光孝天皇の孫 式膽王しきたんおう、興我王及び忠望王の子孫が「平」の氏を賜り、それが光孝平氏と呼ばれるようになりました。光孝平氏は、尊卑分脈に8代程度の系図が記載されています。

中でも、平篤行・兼家の父子は古今集の歌人としても知られていますが、その後の子孫は途絶えてしまったと言われています。また、光孝天皇の流れでも、「源」の氏を賜った光孝源氏が存在しています。

桓武平氏以外は早々と子孫が途絶えてしまったため、結果的に桓武平氏が最も栄えることになりました。
こうして次第に、「平氏」とは「桓武平氏」のことを指すようになっていくのです。

桓武平氏は公家平氏と武家平氏に分かれていた?

平氏4流派の中で、最も栄えた桓武平氏ですが、その中でもさらに公家平氏と武家平氏の大きく2つの流れに分かれます。

公家平氏(高棟流)
公家平氏は、平高棟(高棟王)の系統になります。
平氏というと、清盛や将門といったように武家のイメージが強いかもしれませんが、公家平氏も歴史上重要な役割を果たしています。

公家平氏の祖である高棟は、京の公家(貴族)になりました。
この公家になった平氏は堂上の資格(公家の中でも昇殿を許される家柄=公卿になれる家柄)を持ったことから、「堂上平氏」と呼ばれるようにもなります。

公家平氏の中では、高棟自身が「正三位大納言」という高い役職に任じられただけではなく、その支流からも多くの有力者が輩出されました。

公家平氏の勢いを表す言葉として次のような言葉があります。

「平家にあらざるものは人にあらず」

この言葉は公家平氏の一族である、平時忠が発した言葉だと言われています。

この言葉から、平氏の人々がいかにおごり高ぶっていて、それほどまでに大きな力をもっていたのだということが伺えるでしょう。

武家平氏(高望流)
武家平氏は、平高望(高望王)の系統になります。
先程の公家平氏の祖である高棟王の弟である高望王は、892年(寛平元年)に「平」の氏を賜り、平高望となり武家平氏の祖となりました。

武家平氏の中には、平清盛と平将門といった平安時代に活躍した者たちや、鎌倉時代の執権北条氏、坂東平氏の一族なども含まれます。公家平氏同様、様々な時代に渡って強大な力を持っていたことが伺えますね。

平清盛と平将門の主な戦は?

平清盛と平将門はそれぞれ平氏の名を世間に広めた戦をしています。
ここでは、清盛と将門の主な戦を簡単に解説してきます。

平将門の主な戦は平将門の乱(承平の乱)

平将門の主な戦と言えば、939年(天慶2年)に起きた平将門の乱(承平の乱)が挙げられます。

この戦は、そもそも935年(承平5年)に平将門が土地のことで伯父たちと争っていたことが発端となります。
このとき、平将門は伯父の一人である国香を殺してしまいます。

そして、この争いがどんどん大きくなっていき、ついには朝廷にまでその報せが届いてしまうのです。

平将門の力は強大で、朝廷から将門を討つようにと命令が下りました。

すると、平将門はなんと自身のことを「新皇」と名乗り、坂東を独立国として樹立する宣言をするのです。

それほどまでに関東での将門の力は絶大のものでした。

しかし、この反乱は、国香の息子である平貞盛らの活躍もあり、940年(天慶3年)に平将門が討ち死にし失敗に終わりました。

平将門が新皇と名乗ってから鎮圧されるまではたったの2ヶ月という短い期間でしたが、平氏という存在を朝廷に刻みつけるには十分過ぎる戦でした。

また、ここで平将門と戦った平貞盛ですが、この平貞盛こそが坂東平氏を発展させていく本流になっていったのです。

平清盛の主な戦は保元の乱・平治の乱

平清盛の主な戦と言えば、1156年〜1160年に起きた保元の乱・平治の乱が挙げられます。

そもそも平清盛は平氏の中でも御曹司と言っても過言ではないくらいの存在でした。

なぜなら、平清盛の祖先である平貞盛は平将門の乱で挙げた功績によって伊勢にも領地を広げていて、平忠盛ら子孫が都で活躍する基盤を作り上げてくれていたのです。

つまり、平氏の絶頂期に平清盛は誕生したのです。

その平氏の絶頂期にあった平清盛は、対立していた源氏との決着をつけるべく、保元の乱・平治の乱に参戦します。この戦いで平氏が勝利したことにより源氏は倒れ、清盛はその功績により史上初の武士出身の太政大臣として平氏政権を樹立することになります。これがいわゆる平清盛一門「平家」誕生の瞬間です。

このように武家としての繁栄を極めた平家でしたが、おごり高ぶり貴族化してしまい、関東地方の武士から反感を持たれるようになってしまいます。そして、平清盛が亡くなると凋落の一途を辿っていくことになるのです。

まとめ:平清盛と平将門は親戚関係で同じ野望を抱いていた

平清盛と平将門は祖先を同じとする血縁関係でした。高望王から続いた桓武平氏に属する2人は、互いに貴族中心の社会から武士中心の社会へと変えようという野望を抱き、志半ばに倒れた革命児でした。

今回の内容をまとめると、

  • 平清盛と平将門は祖先を同じとする血の繋がった親戚関係であった
  • 平清盛と平将門が同じとする祖先は平高望で、この人物が桓武平氏の発祥となった
  • 平氏は4流派存在したが桓武平氏が最も栄えることになった
  • 桓武平氏の中でも、公家平氏と武家平氏の大きく2つにわかれる
  • 平清盛も平将門も平氏の名を全国に刻みつけるような戦をした

平清盛と平将門が同じような野望を抱いたのは、同じ祖先である平高望の血が関係しているのかもしれませんね。

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