室町幕府最後の将軍「足利義昭」はどんな人?その生涯と人物像を徹底解説!

室町幕府最後の将軍「足利義昭」はどんな人?その生涯と人物像を徹底解説!

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約240年続いた室町幕府、その最後の将軍第15代「足利義昭あしかがよしあき

大河ドラマ「麒麟がくる」でも、滝藤賢一さんがその役を見事に演じておられます。日本史では、織田信長や豊臣秀吉が活躍していた時代を「安土桃山時代」として習いますが、実は室町幕府の時代にも重なっているのです。
今回はそんな室町幕府最後の将軍「足利義昭」は一体どんな人だったのか?その生涯をみていきます。

室町幕府最後の将軍「足利義昭」の生涯

足利義昭
1537年(天文6年)に第12代将軍 足利義晴あしかがよしはるの次男「千歳丸」として生まれる
兄は、第13代将軍 足利義輝足利義輝

【主なトピックス】

  • 6歳で仏門に入る
  • 織田信長の協力を得て上洛、第15代将軍となる
  • 織田信長との対立(信長包囲網)、京都を追放される
  • 豊臣秀吉に協力し京都へ帰還、将軍職を辞し再び仏門へ入る
  • 1597年(慶長2年)大阪にて病没 享年61歳

足利義昭の年表

足利義昭(Wikipediaより)

室町幕府最後の将軍 足利義昭の生涯を年表でみていきましょう。

【足利義昭 年表】

西暦(年号)        年齢

1537年(天文6年) 1歳 大阪にて生まれる。幼名:千歳丸ちとせまる
1542年(天文11年) 6歳 興福寺一乗門院にて仏門に入る。法名:覚慶かくけい
1565年(永禄8年) 29歳 永禄の変で、兄(義晴)と母・弟が三好三人衆に暗殺される
1566年(永禄9年) 30歳 還俗し、義秋と名乗るようになる
1568年(永禄11年)32歳 第15代将軍に就任し、名を義昭と改める
1570年(元亀元年)34歳 織田信長から「殿中御掟」信長と対立し始める
1572年(元亀3年) 36歳 織田信長から「十七条のご意見書」を渡される
1573年(元亀4年) 37歳 信長包囲網で挙兵するが敗北。京都から追放される
1576年(天正4年) 40歳 毛利氏を頼って中国地方へ。鞆浦に移る。
1588年(天正16年)52歳 将軍職を辞し、再び仏門へ入る。
1597年(慶長2年) 61歳 大阪にて病没

足利義昭は、次男として生まれたため、足利将軍家の慣例で奈良の興福寺一条院にて仏門に入ります。
しかし兄である第13代将軍 足利義晴が母・弟と共に三好三人衆に暗殺されてしまいます。
そのため還俗し、織田信長らの協力を得て上洛、第15代将軍に就任します。もともと将軍家の家督争いを避けるために出家していた足利義昭からしてみると、思ってもみなかった展開ですね。

室町幕府第15代将軍に就任した時は、協力してくれた信長に大変感謝し、たった3つしか年の違わない信長のことを「室町殿御父むろまちどのおんちち」と呼んだといわれています。つまり、父親と同じくらい尊敬していたんですね。
しかしそんな義昭と信長の関係も長くは続かず、わずか5年ほどで京都から追放されてしまったのです。

足利義昭はどんな性格だったのか?

足利義昭は、けっこうわがままな性格だったようです。

6歳の頃から仏門に入っていたとはいえ、代々続く室町幕府の足利将軍家の次男です。俗に言うおぼっちゃまです。

もともと諦めていた将軍の座を、織田信長をはじめとする諸大名の力を借りて手に入れています。足利家を、室町幕府を再興していこうという気概も見えますが、問題は将軍職に就いた後です。

  • 欲しい刀があればとりあげる
  • 神社の敷地を勝手に没収する
  • 名馬と聞くと「差し出せ」とねだる
  • 集めたお金を幕府のために使わない

などなど・・・要は、欲しいものは必ず手に入れる!そんな将軍だったようです。

これでは流石に周りも呆れていたようで、ついには信長も注意勧告をします。

それが「十七ヶ条のご意見書」です。

織田信長が足利義昭に向けて出した「十七条のご意見書」には、義昭の横暴な態度を注意する意見が書いてあります。このご意見書は、いわば信長から義昭に対するダメ出しのようなものです。

簡単に説明すると、

  • 自分が欲しいからといって、勝手にものを取り上げたりするのはやめてください
  • 何か褒美を与えたり、指示をするのは信長から行います
  • 私利私欲を肥やそうとしているのではないかと評判がたっています

などと、結構厳しいことが書いてあります。
織田信長は、冷酷非道なイメージがありますが、単に冷酷だったわけではありません。
まして、将軍といえば、天皇に次ぐ最高権力者ですから、信長は義昭に対してそれなりの配慮はしています。
それなりの配慮をした上でも、ここまでのことを言わせてしまった足利義昭。
わがままだったと言わざるおえないですね。。。

足利義昭は、なぜ京都から追放されたのか?室町幕府を滅ぼしたのは?

足利将軍家の、室町幕府の再興のためにやっとの思いで将軍の座を手に入れた足利義昭。

義昭はなぜ京都から追放されたのでしょうか?

義昭が京都から追放され、室町幕府が滅ぼされた理由は、織田信長との対立がきっかけです。

織田信長との対立で京都から追放された

織田信長は、義昭の上洛に協力し、将軍になったのちも御所の守備を固めたりと、義昭には協力的でした。

なぜ、信長は義昭を京都から追放したのでしょうか?

理由は一言で説明すると、「将軍の権威(室町幕府の再興)を目指した足利義昭」と、「武力で天下を統一しようとした織田信長」との意見の相違。

義昭が将軍になったきっかけは、兄である第13代将軍 足利義晴の暗殺事件。
このことをきっかけに、義昭は還俗し信長らの協力を得て上洛、第15代将軍に就任しました。
しかし、信長は室町幕府の再興よりも、圧倒的な力での天下統一を目指していました。

室町幕府の再興を目指す義昭は、将軍の権威を高めようとわがまま放題。
将軍よりも自分の権力が上だと織田信長による再三の注意勧告。
これが、義昭と信長の対立のきっかけです。

「俺は将軍だぞ!!」と言わんばかりに、義昭は信長と対立を始めます。

そしてついには、信長を討つために方々の戦国大名(浅井長政・朝倉義景・武田信玄ら)に協力を仰ぎ、信長を包囲(信長包囲網)します。

しかし、その信長包囲網は、武田信玄の死去によりあっさりと崩れます

1573年(天正元年)、ついに信長は義昭の住む二条城を包囲しました。
義昭に仕えていた、細川藤孝らの家臣たちは信長に寝返ってましたので、義昭にはもう信長と戦う戦力はありませんでした。

足利義昭は逃げるように山城国(京都府 宇治)の槙島城へ。
しかし、天下の織田信長軍はあっさり槙島城を包囲すると、流石の足利義昭も降伏。信長はそれを受け入れ、京都を追放しました。

そんな状況でも、将軍の職は手放さず細々と将軍職を続けていたことから、「鞆幕府ともばくふ」とも呼ばれています。
この鞆幕府時代にも、信長に敵対していた戦国大名たちに対して書状を送っていた記録が残っています。打倒信長と最後まで諦めなかったんですね。

足利義昭と織田信長の関係については、こちらの記事にもまとめてあります。

将軍「足利義昭」と関白「豊臣秀吉」との関係性

足利義昭は、打倒信長に燃えていましたが、信長は本能寺の変で急死します。

そして、豊臣秀吉が信長の跡を継ぎ、天下統一に向けて勢力を拡大していきます。

義昭はお世話になっていた毛利氏が秀吉に臣従すると、義昭は将軍として、秀吉と九州の島津氏の和睦を取り持った。

義昭の働きかけもあり、島津氏が秀吉の軍門に下ると、1587年(天正15年)義昭は秀吉にしたがって京都へ帰還しました。

その翌年1588年(天正16年)に、朝廷へ将軍職を返上。再び仏門に入り、名を昌山(道休)と改めました。

秀吉からは、1万石の領地を与えられかなり優遇された待遇を受けます。

1万石とはいえ、もともと将軍だったことも加味されたのか、殿中での待遇はそうとう良かったといわれています。
晩年は、斯波義銀しばよしかね山名 堯熙やまなあきひろ赤松則房あかまつのりふさらと共に、秀吉の御伽衆に加えられ、秀吉の良き話し相手として過ごしました。

室町幕府を滅ぼしたのは誰?

足利義昭の書状(Wikipediaより)

この信長が足利義昭を京都から追放したことで、室町幕府は滅亡したと言われています。
京都を追放された義昭は諸国を転々とし、最終的には毛利氏を頼り鞆に落ち着きます。

室町幕府の終わりは、1573年と言われています。
つまり、織田信長が足利義昭を京都から追放したことをもって室町幕府は滅亡したとされています。

室町幕府を滅ぼしたのは、織田信長ということになります。

足利義昭は、織田信長から京都から追放されたのちも、将軍職は続けており「鞆幕府」と呼ぶ方もいます。

室町幕府の滅亡は1573年(元亀4年)足利将軍家の時代が終わった(足利義昭が将軍職を返上した)のは1588年(天正16年)ということになります。

室町幕府 最後の将軍「足利義昭」の最後

室町幕府最後の将軍「足利義昭」は、織田信長によって京都から追放され、信長の死後に豊臣秀吉によって将軍職を返上しました。
その晩年は、再び仏門に入り、秀吉の良き話し相手として過ごしました。
そして、1597年(慶長2年)その生涯を終えます。享年61歳(満59歳)、歴代の足利将軍の中では最も長生きしました。

足利義昭の没後、子孫たちはどうなった?

足利将軍の時代は終わりましたが、足利将軍家の子孫たちはどうなったのでしょうか?諸説ありますが、足利義昭には4人の子供がいたと言われています。

【足利義昭の子孫と言われている人物】

足利義尋あしかがぎじん 1572年(元亀3年)〜1605年(慶長10年)
 足利義昭の嫡子ちゃくし、後継者として育てられましたが、1573年(元亀4年)に足利義昭が織田信長に対して降伏した際、人質として信長に差し出されます。
その後は、奈良の興福寺にて出家し、大僧正になる。
2人の子供(実相院義尊・円満院常尊)を設けますが、二人も出家したため子を設けることはありませんでした。

一色義喬いっしきよしたか 生誕不詳
足利義昭の子ではないかと言われている人物。
足利義昭の近臣であった一色藤長に養育されたため、一色性を名乗ったと言われています。
義喬には、義房という息子がいました。その孫は坂本と改姓し坂本義邵と名乗りました。
坂本義邵の子孫は、現代にも続いている可能性はありますが、詳細は不明です。

永山義在ながやまよしあり 1575年(天正3年)〜1635年(寛永12年)

足利義昭が京都から追放された後に誕生したといわれています。
流浪の身となっていた、足利義昭のもとを離れ、薩摩国に身を置いたとされています。
永山義在の子孫は、幕末に活躍した「永山弥一郎」と「永山武四郎」、そして松竹の元社長である「永山武臣」さんと現代にも続いています。

しかし、足利義昭の子孫であるという決定的な系図などは残っておらず、あくまでも可能性があるというだけです。

矢島秀行やじまひでゆき 生誕不詳
矢島秀行は、足利義昭の家臣だったといわれる人物ですが、足利義昭の子供ではないかという説があります。
秀行の娘は、立花宗茂の継室となっており、孫娘は今川義元の孫に嫁いでいます。
しかし、足利義昭の子であるという資料は残っておらず、あくまでも可能性があるというだけです。

足利義尋は唯一、足利義昭の実子であることが確認されているので、事実上確認できる足利義昭の血筋は途絶えたことになります。
松竹の元社長、永山武臣さんの子孫がもしかしたら足利義昭の子孫である可能性はありますが、確証できる資料などはありません。

まとめ:室町幕府最後の将軍 足利義昭の生涯

今回は、室町幕府最後の将軍 足利義昭の生涯と人物像をみてきました。
簡単にまとめると、

  • 織田信長の協力を得て第15代将軍になったが、京都から追放された
  • 欲しいものは手に入れる、わがままな性格だった
  • 晩年は、秀吉の良き話し相手として過ごし、足利将軍の中では最も長生きした
  • 足利義昭の子孫は、確証できる証拠がなく、現時点で子孫は確認できない

約240年続いた、室町幕府最後の将軍 足利義昭。その人生は波乱万丈なものでしたが、晩年は大往生で、天命を全うしたのではないでしょうか?

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