牧野富太郎の家系図を簡単に解説!子孫は現在も続いてる?妻は2人いた?
牧野富太郎(1862(文久2)〜1957(昭和32))は、「日本の植物学の父」の呼び名で知られている植物学者です。
多数の新種の植物を発見し命名まで行った、近代植物分類学の権威でもあります。
2023年のNHKの朝ドラ『らんまん』の主人公・槙野万太郎のモデルとなったことでも話題になりました。
そんな牧野富太郎の子孫は、現在まで続いているのでしょうか?
この記事では、牧野富太郎の家系図を見ながら、その子孫について簡単に解説していきます。
目次
牧野富太郎の家系図をわかりやすく解説!
牧野富太郎の家族構成は?
【牧野富太郎のプロフィール】
牧野富太郎(まきのとみたろう) 1862年(文久2年)〜1957年(昭和32年) 享年:94歳
出身地:土佐国(現在の高知県)
父:牧野佐平 / 母:久壽
祖母:浪子
妻:壽衛、猶
子:園子、香代、延代、鶴代、春世、百世、勝世、巳代、益代、富美代、玉代、富代
牧野富太郎は、1862年(文久2年)に土佐国佐川村(現在の高知県高岡郡佐川町)で、近隣から「佐川の岸屋」と呼ばれた商家と酒造業を営む裕福な家に生まれます。
しかし、3歳で父を、5歳で母を、6歳で祖父を亡くしてしまいます。そのため、牧野富太郎は、幼少期から祖母に育てられることになります。
その後、植物学に興味を持った牧野富太郎は、家のことを祖母や許嫁の猶に任せ、研究のために上京。
そして、そこで出会ったすえ(壽衛)に惚れて、2人は恋愛結婚することになります。
牧野富太郎は、妻のすえ(壽衛)との間には、子供が13人できましたが、そのうち6人は死産や早世してしまっています。
牧野富太郎は長寿だったが妻のすえ(壽衛)は若くして亡くなった?
牧野富太郎は、94歳まで生きていましたが、妻のすえ(壽衛)はなんと55歳という若さで亡くなってしまいます。これは、自邸が完成して2年後のことでした。
2人の間には約10歳の年の差がありましたから、牧野富太郎は妻亡き後、28年間1人で生きたということになります。
妻亡き後も、牧野富太郎は研究に邁進します。90歳を過ぎ、山へ採集へと出かけられなくなった頃からは、自宅の庭で長い時間を過ごすようになりました。
庭に移植した植物を観察・採集したり、標本を整理したり、訪問客と植物の話をして盛り上がったりしていたようです。
病床につく93歳までひたすら研究に没頭していたと言われています。
睡眠時間は常に6、7時間で、寝るのは深夜1時過ぎということも日常茶飯事だったようです。
それほどまでに、牧野富太郎は自身の人生を植物に捧げていたのです。
牧野富太郎の子孫は現在も続いている?
牧野富太郎には、壽衛との子供が13人いました。
そのうち6人は死産や早世してしまいましたが、7人は無事に成人しています。
牧野富太郎の子孫は現在まで続いているのでしょうか?
ここでは、牧野富太郎の子孫について簡単に解説していきます。
見出し2-1 牧野富太郎の子供は13人?
牧野富太郎は、妻・壽衛との間に13人の子供(園子、香代、延代、鶴代、春世、百世、勝世、巳代、益代、富美代、玉代、富代)がいました。
そのうち、無事に成人したのは3男4女の7人(香代、鶴代、春世、百世、勝世、巳代、玉代)です。
成人したうち、その後がわかっているのは、以下の通りです。
・香代
長女・香代は、石川県出身の実業家・細川正也と結婚しますが、その後離婚しています。
巳代、玉代が嫁いだ後は、牧野富太郎と同居して身の回りの世話をしていたそうです。
・鶴代
次女・鶴代は、無産運動家の額賀二郎と結婚し、2男1女を出産しますが、その後離婚します。
長女の香代同様、牧野富太郎と同居していました。そして、牧野富太郎が亡くなった後は、蔵書を故郷の高知県・牧野植物園に、植物標本を都立大学に寄付します。
さらには、練馬区の居宅を東京都に寄付したことから、居宅が牧野記念庭園となりました。鶴代は非常勤職員として、庭園の管理を担いました。植物の知識が豊富で、植物同好会で講師を務められることもあったようです。
また、『集成牧野植物図鑑』や『牧野植物随筆集』の発刊にも尽力していました。
・巳代
三女・巳代は、壽衛が亡くなると、牧野富太郎の身の回りの世話をしていたようです。
昭和60年に開催された牧野富太郎博士展の胸像除幕式に、四女の玉代と共に出席していました。
・玉代
四女・玉代は、東京豊島区の川村女学院を卒業後、五交商事、日本造型の元会長・岩佐喜七と結婚します。
壽衛が亡くなると、巳代とともに牧野富太郎の身の回りの世話をしていました。
見出し2-2 牧野富太郎の子孫で現在も活躍している人は?
牧野富太郎の子孫で、名前がわかっているのは以下の方たちです。
- 岩佐まゆみ
- 岩佐吉晃
- 牧野一浡
・岩佐まゆみ
岩佐まゆみさんは、四女・玉代の娘として誕生しました。
名付け親は牧野富太郎で、芯がしっかりした強い子を願って、庭のマユミの木からまゆみと名付けたそうです。
牧野富太郎は、岩佐まゆみさんのことを非常にかわいがっていたそうで、岩佐まゆみさんの高校卒業時には、病床から色紙を送ったくらいでした。
その色紙には、以下のような内容が書かれていました。
「櫻花 朝日に匂ひ 咲きにけり 山桜 旭日に匂ひ 咲きにけり」
牧野富太郎は、数ある花の中でも桜が好きだったようで、その花の句を贈るということから、岩佐まゆみさんへの深い愛情が伺えますね。
・岩佐吉晃
岩佐吉晃さんは、岩佐まゆみさんのご子息です。
成蹊大学を卒業後、日本石油ガスに勤務し、現在はOMC(Ogikubo Malt Club)の代表を務められています。
・牧野一浡
牧野一浡さんは、鶴代の孫にあたる方です。
母親を3歳で亡くしたため、鶴代に育てられました。そのため、10歳まで牧野富太郎と同居していたようで、研究に没頭している牧野富太郎に、「おじいちゃん、ご飯ですよ」と夕ご飯の準備ができたことを告げに行ったりしていました。
しかし、研究の邪魔をしてはいけないと言われていたので、あまり牧野富太郎と遊んだ記憶はないようです。
牧野一浡さんは、サラリーマンとして働いていましたが、2008年に牧野記念庭園がリニューアルされるのを機に、学芸員の資格を取ります。
そして、現在は、牧野記念庭園記念館の学芸員として活躍されていらっしゃいます。
祖母・鶴代が残した資料(牧野富太郎の遺品など)を保存・管理しながら、牧野富太郎の素晴らしさを広めているのです。
牧野富太郎には妻が2人いた?
牧野富太郎の妻としては、すえ(壽衛)が有名となっていますが、実はすえ(壽衛)の前にも妻がいたのです。
しかし、なぜ最初の妻と離婚することになったのでしょうか?
ここでは、牧野富太郎の最初の妻について簡単に解説していきます。
\ 牧野富太郎の妻に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております /
牧野富太郎の最初の妻は従兄弟の猶?
牧野富太郎の最初の妻については、公的な資料では確認することはできません。
しかし、生前の牧野富太郎の発言に以下のようなものが残っています。
「わたしの元の家内というものは、いとこでいいなずけみたいなものであって、どうも面白くなかった。(中略)いとこ同士のは、興味がなんにもなかった」
ここから相手として考えられているのが、いとこの猶です。
いとこの猶の特徴をまとめると以下の通りです。
- 牧野富太郎の3歳年下のいとこ
- 子供の頃から牧野家の経営していた「岸屋」に同居していた
- 教員養成学校である女子師範学校を卒業した
- 人柄の良いしっかりとした女性
- 「岸屋」の家事や経営を手伝っていた
以上のように、幼い頃から2人は顔なじみであり、牧野富太郎の祖母も猶のことを高く評価していたようです。
そのため、岸屋の安泰のために、祖母が猶との結婚を勧め、牧野富太郎もそれを承諾して結婚したのだと考えられています。
牧野富太郎と猶の間には子供はいなかった?なぜ離婚した?
結婚後、猶は、岸屋の女将として店を切り盛りしてくれました。
牧野富太郎はこの時点ですでに実家を出て、研究の日々を送っていましたが、猶が店のことを全てやってくれていたので、実家を気にすることなく研究に没頭できていたようです。
それどころか、猶は店の切り盛りをする一方で、牧野富太郎の研究資金も工面してくれていました。
しかし、度重なる牧野富太郎からの研究のための大金要求のせいで、岸屋の経営も次第に傾いていきます。
実家からの仕送りが来なくなったり、猶から
「金策に困ったので一度佐川に帰ってきてほしい」
との懇願する手紙が来たりと、おかしいと感じた牧野富太郎は一度実家に戻ります。
そして、実家の経営状況を知り、愕然とするのです。
自身にはこの状況を打開できるような才はないと考えた牧野富太郎は、猶と離婚します。
猶を、一緒に岸屋を切り盛りしてくれてきた番頭の井上和之介と結婚させ、岸屋と借金を任せることにしたのです。
そのため、結婚生活のようなものは2人の間にはなく、子供もできることはありませんでした。
牧野富太郎の子供は、2番目の妻すえ(壽衛)との間にできた子だけ、ということになります。
まとめ:牧野富太郎の子孫は現在まで続いており、牧野富太郎の素晴らしさを後世に伝えている
牧野富太郎には、壽衛との間に13人の子供がいました。そのうち無事に成人したのは7人で、現在まで子孫は続いています。
今回の内容をまとめると、
- 牧野富太郎には妻の壽衛との間に13人の子供がいた
- 牧野富太郎と、最初の妻・猶との間には子供はいなかった
- 牧野富太郎の13人の子供のうち、無事に成人したのは7人
- 牧野富太郎の子孫は現在まで続いている
- 牧野富太郎の子孫の牧野一浡さんは、牧野記念庭園記念館の学芸員として、牧野富太郎の素晴らしさを伝えている
自身の子孫が、自分のことを後世に伝えていってくれているというのは、牧野富太郎本人にとっても、喜ばしいことでしょう。