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牧野富太郎の妻はどんな人?出会いは?最初の妻は?死因は?エピソードと共に簡単に解説!

牧野富太郎(1862(文久2)〜1957(昭和32))は、「日本の植物学の父」の呼び名で知られている植物学者です。

多数の新種の植物を発見し命名まで行った、近代植物分類学の権威でもあります。

2023年のNHKの朝ドラ『らんまん』の主人公・槙野万太郎のモデルとなったことでも話題になりました。

そんな牧野富太郎には妻がいました。

妻はどのような人で、どのように出会ったのでしょうか?

この記事では、牧野富太郎の妻について簡単に解説していきます。

牧野富太郎の妻はすえ(壽衛)2人の馴れ初めは?

牧野富太郎の妻はすえ(壽衛)という女性です。

牧野富太郎はすえ(壽衛)とどのように出会ったのでしょうか?

また、どのような女性なのでしょうか?

ここでは、牧野富太郎の妻すえ(壽衛)について簡単に解説していきます。

牧野富太郎の妻すえ(壽衛)はどんな人?

牧野富太郎の妻はすえ(壽衛)という女性です。

壽衛は、1873年(明治6年)に小沢一政と妻・あいの次女として、東京で生まれました。

父親・小沢一政は、彦根藩主・井伊家の家臣で、明治維新後は陸軍に勤務していました。

つまり、すえ(壽衛)は武士の娘と言っても過言ではありません。

父親の存命中は、広大な邸宅に住み、踊りや唄、お花やお茶を習うなど、非常に裕福な暮らしをしていましたが、父親が亡くなると、それも一変。

すえ(壽衛)は、邸宅も財産も失って、非常に貧しい暮らしに落ちてしまいます。

そして、母のあいは生活のため、「小沢」という名の小さな菓子店を営み始めます。

すえ(壽衛)もそこの店の手伝いをするようになりました。

このように、すえ(壽衛)は、幼いながらも波乱万丈な人生を経験している、そんな女性でした。

牧野富太郎と妻すえ(壽衛)の馴れ初めは?

牧野富太郎とすえ(壽衛)の出会いは、壽衛の母親が営んでいた菓子店でした。

その菓子店は、牧野富太郎の下宿先から、通っていた帝国大学理科大学の植物学教室までの道の途中にありました。

牧野富太郎は、酒もタバコも好みませんでしたが、その代わりにかなりの甘党で、自然と壽衛の母親の菓子店にも目がいったそうです。

そして、そこでときおり店先に座っていたすえ(壽衛)を見初めました。

このとき、牧野富太郎は26歳、すえ(壽衛)は15歳でした。

そこからは、牧野富太郎は毎日のようにその菓子店に通っては、すえ(壽衛)への恋心を募らせていきました。

しかし、なかなか恋は発展してはいきませんでした。

何故かというと、牧野富太郎が話しかけようとすると、すえ(壽衛)は真っ赤になってうつむいてしまうからです。

これには、当時の若い女性は、見知らぬ男性とは簡単に口をきかないほうがよいとする慣習があったからではないか?とされています。

名前すら聞き出せなかった牧野富太郎は、印刷技術を習っていた石版印刷屋の主人・太田義二に

「小沢菓子店の娘さんとの仲を取りもってください」

と助けを求めたのです。

すると、太田義二は、すえ(壽衛)の母親に話を通し、見事に仲を取りもってくれました。

すえ(壽衛)も毎日やってくる牧野富太郎のことを気になっていたのかもしれません。

こうして、2人の縁談はまとまり、結婚することとなりました。

牧野富太郎の自叙伝によると、1890年(明治23年)頃のことだったようです。

牧野富太郎の妻すえ(壽衛)の献身的なエピソードは?

牧野富太郎と妻すえ(壽衛)は、いわゆる恋愛結婚でした。

そして、すえ(壽衛)は牧野富太郎の研究を理解し、非常に献身的に尽くしました。

ここでは、牧野富太郎の妻すえ(壽衛)の献身的なエピソードを簡単に解説していきます。

牧野富太郎と妻すえ(壽衛)の間には子供が13人もいた

牧野富太郎とすえ(壽衛)の間には、なんと子供が13人もいました。

そのうち無事に成人したのは6人、他は幼くして亡くしてしまっています。

牧野富太郎は、基本的にずっと研究に没頭していたため、子どもたちの世話や家のことは全てすえ(壽衛)がやっていました。

牧野富太郎は、1年間家に帰ってこないということもあったようです。

すえ(壽衛)は十代でありながら、臨月の身で乳飲み子を2人育てつつ、10日ごとにくる借金取りをなだめて追い返し、やりくりをして生計も支えなければなりませんでした。

しかも、時には牧野富太郎の親戚の病人まで預かっていたこともあったようです。

そんな大変な毎日を送っていたすえ(壽衛)ですが、決して泣き言を言うことはありませんでした。

それどころか、牧野富太郎への手紙では、

「(子供の死の)全ての非は自分にある」

とひたすら謝罪していたこともあったのです。

しかし、すえ(壽衛)は牧野富太郎を責めることも一切ありませんでした。

母親として、妻として、非常に献身的に尽くしたすえ(壽衛)に対して、牧野富太郎は以下のように語っています。

「この苦境の中に、大勢の子どもたちに、ひもじい思いをさせないで、とにかく学者の子として育てあげることは全く並大抵の苦労ではなかったろうと思い、これを思うと今でも妻が可哀想でならない。私はこの苦労をよそに、研究に没頭していた」

ここからもわかるように、いかにすえ(壽衛)が壮絶なワンオペ育児をしていたのかということが伺えますね。

牧野富太郎の妻すえ(壽衛)は借金取りを何度も追い返していた

牧野富太郎は、研究に没頭していたせいで大した稼ぎもなく、ましてや坊ちゃん育ちで節約という概念がなかったため、一家の経済状態はずっと苦しい状態でした。

専ら高利の借金に頼らざるを得ず、一時は現在の金額で2千万円ほどまで借金が膨らんでいたこともありました。

家賃も滞納が常態化していて、追い出されては引っ越して、また滞納して追い出されてというのを繰り返しています。

30代から40代の間に引っ越した回数は、なんと30回以上だと言われています。

借金取りが、わずかな家財道具を持っていってしまうということも珍しくはありませんでした。

こんな状態であったにも関わらず、なんとか一家が生活していけていたのは、すえ(壽衛)のおかげです。

10日ごとにやってくる借金取りの対応はすえ(壽衛)の役目でした。

すえ(壽衛)は、普段はすっぴんでしたが、借金取りの来る日は薄化粧をし、巧みに話をそらしながら、相手の機嫌を取って話をごまかし、相手の身の上話を聞き出していました。

すると、借金取りたちは、美人で愛嬌のよい壽衛に話を聞いてもらえたとなり、最終的には上機嫌で帰っていくのです。

すえ(壽衛)のおかげで、借金取りたちは、

「牧野は研究で忙しくて、借金取りに対応する暇もなかったんだな」

と好意的に考えていましたが、実際は異なります。

牧野富太郎の自叙伝には、以下のように書かれています。

「家の門に赤旗が出ていると、これは借金取りが来ている危険信号であった。そして、赤旗がなくなると、やっと家へ入るようにした。鬼のような借金取りとの対応は一切女房がやってくれた」

つまり、牧野富太郎が借金取りと会わないように、すえ(壽衛)が配慮してくれていたというわけです。こうして牧野富太郎は、研究に没頭することができていました。

以上のように、借金があっても生活できていたのは、すえ(壽衛)の天賦の才のおかげだったということですね。

牧野富太郎の妻すえ(壽衛)は待合を経営していた

壽衛が借金取りのあしらいがうまかったとしても、借金が減るわけではありません。

そこで、すえ(壽衛)はビジネスを始めます。

何を始めたかというと、「待合」という店を始めました。

明治維新後流行っていた「待合」という店は、政府の要人や企業人らが利用し、芸妓を呼んでの宴席や密談などの場所となっていました。現在の高級料亭に近いものですね。

すえ(壽衛)は、小さな一軒の家を借り、実家の別姓をとって「いまむら」という名前で待合を始めます。

すると、ここでもすえ(壽衛)の天賦の才が発揮されるのです。

壽衛のお店の評判はたちまち広まり、生活が安定するところまできました。

しかし、牧野富太郎は、大学で、

「大学の先生のくせに待合をやるとはけしからん」

などと悪口を言われたりもしていたようです。

それでも、間違いなく牧野富太郎の家計を支えていたのは、すえ(壽衛)でした。

牧野富太郎は新種の植物に妻の名前を付けた

すえ(壽衛)は牧野富太郎の研究の価値を見出し、献身的に尽くしてきました。

その甲斐もあり、牧野富太郎は、昭和2年には理学博士の学位を得て、やっと努力が報われるというところまで登りつめるのです。

しかし、そんな矢先、すえ(壽衛)は55歳という若さで亡くなってしまいます。

牧野富太郎は、そんな最愛の夫人を偲び、前年に仙台で発見した新種のササにすえ(壽衛)の名を冠し、「スエコザサ」と名付けました。

スエコザサ

すえ(壽衛)の墓は、谷中天王寺に牧野富太郎の墓とともにあり、そこの墓碑には牧野富太郎が詠んだ俳句が2句刻まれています。

「家守りし 妻の恵みや わが学び」

「世の中の あらん限りや スエコ笹」

この俳句には、牧野富太郎のすえ(壽衛)への深い愛情と感謝が込められているのでしょう。

牧野富太郎には妻が二人いた!最初の妻は誰?

牧野富太郎の妻はすえ(壽衛)というのが広く知れ渡っていますが、実はその前にも妻がいたのです。

ここでは、牧野富太郎の最初の妻について簡単に解説していきます。

牧野富太郎の最初の妻は従兄弟の猶?

牧野富太郎の前妻については、公的な資料では確認することはできません。

しかし、生前の牧野富太郎の発言に以下のようなものが残っています。

わたしの元の家内というものは、いとこでいいなずけみたいなものであって、どうも面白くなかった。(中略)いとこ同士のは、興味がなんにもなかった」

ここから相手として考えられているのが、いとこの猶です。

いとこの猶の特徴をまとめると以下の通りです。

  • 牧野富太郎の3歳年下のいとこ
  • 子供の頃から牧野家の経営していた「岸屋」に同居していた
  • 教員養成学校である女子師範学校を卒業した
  • 人柄の良いしっかりとした女性
  • 「岸屋」の家事や経営を手伝っていた

以上のように、幼い頃から2人は顔なじみであり、牧野富太郎の祖母も猶のことを高く評価していたようです。

そのため、岸屋の安泰のために、祖母が猶との結婚を勧め、牧野富太郎もそれを承諾して結婚したのだと考えられています。

牧野富太郎の最初の妻の猶も研究を支えていた?

結婚後、猶は、岸屋の女将として店を切り盛りしてくれています。

牧野富太郎はこの時点ですでに実家を出て、研究の日々を送っていましたが、猶が店のことを全てやってくれていたので、実家を気にすることなく研究に没頭できていたようです。

それどころか、猶は店の切り盛りをする一方で、牧野富太郎の研究資金も工面してくれていました。

しかし、度重なる牧野富太郎からの研究のための大金要求のせいで、岸屋の経営も次第に傾いていきます。

実家からの仕送りが来なくなったり、猶から

「金策に困ったので一度佐川に帰ってきてほしい」

との懇願する手紙が来たりと、おかしいと感じた牧野富太郎は一度実家に戻ります。

そして、実家の経営状況を知り、愕然とするのです。

自身にはこの状況を打開できるような才はないと考えた牧野富太郎は、猶と離婚します。

猶を、一緒に岸屋を切り盛りしてくれてきた番頭の井上和之介と結婚させ、岸屋と借金を任せることにしたのです。

その後、猶と井上和之介は岸屋をたたんで醤油屋を始めましたが、間もなく静岡県の焼津へと移りました。

そして、猶は晩年は東京に住み、1950年に亡くなったと言われています。

ちなみに、猶と牧野富太郎は、離婚後も度々連絡を取っていたようで、猶とすえ(壽衛)の交流もあったようです。

このように、牧野富太郎の研究は、2人の妻に支えられてできていたというわけですね。

まとめ:牧野富太郎は二人の妻に支えられて研究に没頭することができていた

牧野富太郎には、二人の妻(壽衛と猶)がいました。牧野富太郎が自身のやりたい研究にひたすら没頭できていたのは、二人の妻の存在があったからと言っても過言ではありませんでした。

今回の内容をまとめると、

  • 牧野富太郎には妻が二人いた
  • 牧野富太郎は、最初の妻である猶とは祖母の勧めで結婚したが、色々と合わずに離婚した
  • 牧野富太郎は2番目の妻すえ(壽衛)とは恋愛結婚し、子供も13人できた
  • 牧野富太郎の二人の妻、猶もすえ(壽衛)も牧野富太郎の研究のために尽くしてくれていた

牧野富太郎は、最愛の妻すえ(壽衛)の名前を植物につけるほどの愛情と感謝を示しました。

しかし、反対に猶のことは自叙伝にすらあまり語っていません。支えてもらっていたことを考えれば、もっと猶のことも大事にすべきだったのではないかと思わざるを得ません。

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