楠木正成の名言・格言|伝説や最後の戦い(湊川の戦い)、辞世の句も解説!
楠木正成(1294年(永仁2年)~1336年(延元元年/建武3年))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将です。鎌倉幕府の倒幕に貢献し、建武の新政では後醍醐天皇の絶大な信任を受け、様々な役職を与えられました。この記事では、楠木正成の名言や最後の戦い、さらに辞世の句までご紹介していきます。
目次
楠木正成の名言1|足ることを知って、及ばぬことを思うな
名言:
足ることを知って、及ばぬことを思うな現代訳:
足りない部分より足りている部分に目を向けなさい
この名言は簡単に言えば、他人にあって自分に足りないということは、別に他人に及ばないことにはならないから、きちんと自分自身を見つめようということですね。
ないものねだりをしていないで、「自分であればどうしたらこの状況を打破できるのか」と自分流の方法を考え出しましょうと楠木正成は言っていたのです。
窮地を様々な方法で打開した楠木正成ならではの名言と言えるでしょう。
楠木正成の名言2|合戦の勝負、必ずしも大勢小勢に依らず
名言:
合戦の勝負、必ずしも大勢小勢に依らず。ただ士卒の志を一つにするとせざるとなり現代訳:
戦いの勝ち負けは、必ずしも兵の数の多い少ないで決まるのではなく、兵の心を一つにするかしないかで決まるのである
楠木正成は赤坂城で幕府軍と戦った際、20万もの幕府軍に対し、たったの500の兵で迎え撃ったことがありました。幕府側は圧倒的な兵力差だし、すぐに決着がつくであろうと思っていましたが、楠木正成軍は釣塀を使ってわざと塀を倒し、上から大石や熱湯をかけるなどして、塀に群がっていた幕府軍に甚大な被害を与えることに成功するのです。
このように、兵の数が少なくても目的のために皆の心を一つにして戦うことが大事だと、楠木正成は考えていたのでしょう。
楠木正成の名言3|大将は大なる知恵も細なる知恵もなくてはかなわぬものなり
名言:
大将は大なる知恵も細さなる知恵もなくてはかなわぬものなり。
知恵は生まれつきにありというも、その知恵を磨かざれば正智いずることなし。
知恵に自慢おごりて、磨かざる大将はみな代々持ち来る国を失い、家もなくなってしまう現代訳:
大将とは大きな知恵も小さな知恵も持たなくてはならないものだ。
知恵は生まれつきのものだというが、それを磨き続けなければ正しい知恵は出てこない。
持っている知恵を自慢するだけで磨かなければ、どんな大将でも代々持っている国を失い、家も失ってしまう
楠木正成は、千早城でも幕府の大軍と戦ったことがありました。
その際の人数は、幕府軍2.5万〜8万(『太平記』によれば幕府軍は100万という話も…)に対し、正成軍はたったの1000人。このときに役に立ったのが、楠木正成の知略です。
夜のうちに甲冑を着せた藁人形を囮として用意し、朝になって敵兵が人形へと殺到したところへ、大量の石を落とすなどのゲリラ戦法で幕府軍を苦しめました。
このように、知恵を磨き続けた楠木正成の知略は、圧倒的な戦力差を埋めることができるくらいの最高の武器となったのです。
楠木正成の名言4|良将は戦わずして勝つ
名言:
良将は戦わずして勝つ現代訳:有能な将軍は戦わずに勝つのだ
こちらの名言は『太平記』に載っており、中国の『孫氏』という兵法の言葉を引用したと言われています。
楠木正成は、武将にとって一番理想的な勝利とは、政治や交渉、知略などの戦闘以外での手段によって優位に立つことだと考えていました。
それを表すように、赤坂城奪還の際には、楠木正成軍は赤坂城に持ち込む兵糧の米俵に武器を仕込み、人夫姿となって城内へ侵入します。
そして、楠木正成軍が武器を取り出して鬨の声を上げると同時に、城外からも押し寄せてくる軍勢に城内の人々は恐怖し降伏するのです。
このように、楠木正成は事前の準備のおかげで一戦も交えることなく赤坂城奪還に成功したのでした。
楠木正成の辞世の句|罪深き悪念なれどもわれもかように思うなり
楠木正成の辞世の句:
罪深き悪念なれどもわれもかように思うなり。
いざさらば同じく生を替へてこの本懐を達せん現代訳:
罪業の深い救われない考えだが私もそう思う。
さぁ、それでは同じように生まれ変わって、このかねてからの願いを果たそうではないか
楠木正成は、湊川の戦いで追い詰められた末、弟の楠木正季と共に自害します。
その際、正季は
「七回生まれ変わっても、朝敵を滅ぼして国のために報いたいと思う」
これに対して正成は、
「罪深き悪念なれどもわれもかように思うなり。いざさらば同じく生を替へてこの本懐を達せん」
と返すのです。このやり取りから「七生報国」という言葉が誕生します。
当時、東国の武士のほとんどが足利尊氏に加担していく中、最後まで後醍醐天皇に忠誠を誓った正成らしい辞世の句ですね。
楠木正成の最後の戦い「湊川の戦い」を簡単に解説
楠木正成の最後の戦いは「湊川の戦い」です。
鎌倉幕府の倒幕を果たし、建武の新政が始まり、ようやく世の中も安定するかと思われた矢先のことでした。
天皇や貴族を優遇する後醍醐天皇の政治に不満を持った、足利尊氏が反旗を翻したのです。
足利尊氏を高く評価していたことや、自軍の圧倒的不利を悟っていた楠木正成は、後醍醐天皇に足利尊氏と手を組むように進言します。
しかし、後醍醐天皇はそれを拒否し、そのまま足利尊氏との戦に突入することになってしまいました。
案の定戦に負けてしまった楠木正成は、「七生報国」の言葉を残し、弟の正季と刺し違える形で自害します。
楠木正成が亡き後、足利尊氏は後醍醐天皇から三種の神器を取り上げ、光明天皇を擁立して室町幕府を開府します。しかし、後醍醐天皇は渡した三種の神器は偽物であると主張し、吉野に朝廷を開き、南北朝時代に突入していくことになりました。
そういった意味では、歴史の変わり目の大事な戦であったと言えるでしょう。
楠木正成は何をした人?なぜ皇居前に銅像があるのか?
皇居前に建っている、楠木正成の銅像。
この銅像は、1333年(元弘3年)に隠岐の島から救い出された後醍醐天皇を迎えた時の楠木正成をモデルとして作られました。
それでは、なぜ皇居前に楠木正成の銅像が作られることになったのでしょうか?
楠木正成の残した「七生報国」が、明治維新の根本思想となった?
楠木正成といえば、後醍醐天皇の行った倒幕計画から建武の新政をサポートし、最後には負け戦とわかっていても後醍醐天皇のために足利尊氏と戦をするなど、後醍醐天皇に忠誠を誓い続けたという人物です。
楠木正成は死ぬ間際、
「七生報国(死んでも生まれ変わって、朝敵を倒し国に報いたい)」
という言葉を残しています。
この言葉が、明治維新の際に根本思想となります。
また、第二次世界大戦の際にも、この言葉が「皇国に報いる」という意味を込めた戦争を肯定するスローガンとして使われるということもありました。
このように楠木正成の忠誠心を称えるために、1891年(明治23年)に銅像が建てられたのです。
まとめ:楠木正成の名言は、その言葉を裏付ける行動があったからこそ人々の心に残っている
楠木正成は、その人生を後醍醐天皇に捧げ、最後の最後まで忠誠を尽くしました。
また、戦では圧倒的な戦力があろうとも諦めることなく、知恵を絞って敵を苦しめることに成功していました。
楠木正成の名言には、その言葉を裏付ける行動があったからこそ、人々の心に残っているのでしょう。
今回の内容をまとめると、
- 楠木正成は知略に長けた人物であった
- 楠木正成は、圧倒的な戦力差がある戦いでも、持ち前の知恵を活かし相手を苦しめた
- 楠木正成は、終生 後醍醐天皇に忠誠を誓っていた
- 湊川の戦いで弟と刺し違える形で自害をした
- 楠木正成の辞世の句「七生報国」は、明治維新の根本思想や、第二次世界大戦のスローガンになった
楠木正成は元々悪党と呼ばれていました。
悪党というと、犯罪者などのイメージがあるかもしれませんが、この場合の悪党とは朝廷や幕府の支配下にない人のことを指します。
しかし、後醍醐天皇が夢でお告げを受け、楠木正成を家臣にします。
これが、楠木正成の人生を大きく変えたと言っても過言ではないでしょう。
後醍醐天皇に拾われたことによって、楠木正成は自分の才能をいかんなく発揮することができたのです。
楠木正成の、後醍醐天皇への忠誠心は、ここからきているのかもしれませんね。