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織田信長と足利義昭の関係は?室町幕府を滅ぼしたのは信長なの?

織田信長と足利義昭の関係は?織田信長は室町幕府を滅ぼしたのか?

天下布武てんかふぶ」を掲げ天下統一を目指した織田信長、室町幕府最後の将軍足利義昭あしかがよしあきの二人。足利義昭はどのようにして室町幕府最後の将軍になったのか?

なぜ織田信長は足利義昭を京都から追放したにも関わらず生かしておいたのか?今回は、織田信長と最後の将軍足利義昭の関係性と、室町幕府の最後についてまとめてみました。足利義昭はなぜ生き残ったのか?その処世術についても詳しくみていきましょう。

織田信長と足利義昭はどんな関係?仲が悪かったの?

戦国時代の一武将にすぎなかった織田信長、12代将軍足利義晴あしかがよしはるの次男として生まれた足利義昭。兄も第13代将軍の足利義輝あしかがよしてるだったといういわばサラブレッド。そんな将軍になるために生まれてきたような足利義昭と織田信長はどんな関係だったのでしょうか?
信長と義昭の出会いから将軍になるまでの期間を簡単にまとめてみました。

織田信長と足利義昭の出会いは?

第12代将軍 足利義晴の次男として生まれた足利義昭は、次男だったため当時の慣例により仏門に入っていました。

その兄である、第13代将軍 足利義輝が暗殺されると、出家の身から足利義昭として足利家へ戻りました。ただ当時は、兄を暗殺した松永秀久まつながひでひさや三好三人衆が足利家を探し回っていたのでおちおち家に帰ることもできず、、いわば放浪ですね。そんな時、朝倉家の家臣をしていた明智光秀の紹介で織田信長と出会ったと言われています。

足利義昭が将軍になれたのは織田信長のおかげ?

明智光秀や織田信長の尽力もあり、やっとの思いで京都に戻ることができた義昭。それをみた三好三人衆の勢力も京都から後退し、さらには第14代将軍 足利義栄も死去、ついに朝廷より任命され念願の?第15代将軍に就任したのです。

しかし京都に戻るだけで一苦労とは、今の時代では考えられませんね。

この時の信長は、「幕府の後ろ盾」という権力を手に入れたい(利用したい)、義昭は信長の武力で守って欲しいというお互いの利益が一致していたんですね。
就任当時、義昭は織田信長に褒美を渡そうとしましたが、信長は一切受け取らなかったとも言われています。

さらに、信長は御所を整備(二重の水掘で囲い、石垣も高くし「洛中の平城」とまで呼ばれるほどの防御性を高めました)、義昭の身辺をしっかり警護しました。これにより、室町幕府は再興への道を歩み始めました。
これに感激した義昭は、感謝の意を込めて信長を 「室町殿御父」 つまり、年も3つ程しか変わらないにも関わらず「自分の父親と同じ」というほど敬いました。それだけ信長に対して信頼を寄せ敬意を払っていたということですね。この頃は信長と義昭の関係は絶好調です!しかし、この良好な関係は長くは続かないのでした。。。

室町幕府最後の将軍「足利義昭」に関しては、以下の記事でも詳しく解説しています。
室町幕府最後の将軍「足利義昭」はどんな人?その生涯と人物像を徹底解説!

足利義昭ってどんな人?実は性格が悪かった?

そもそも、足利義昭はどんな人物だったのでしょうか?色々あったとはいえ、室町幕府の第15代将軍です。ここでは義昭の人物像とどんなことを行ったのかをみていきましょう。

足利義昭はどんな人物だったのか?

足利義昭は、12代将軍足利義晴の次男として1537年京都に生まれます。当時の慣習により次男ということで出家しています。本来なら、仏弟子として静かな人生を送るはずだったんですね。

しかし、13代将軍であり兄の義輝よしてるが暗殺されたため家督を継ぎ、ここから義昭の人生が一変します。

織田信長の助けを受け京都に戻り15代将軍に就任。もともとは将軍になるはずではなかった義昭、欲望がフルスロットルに入っちゃったんですかね!?ここからわがままっぷりを発揮しちゃいます。

義昭のわがままエピソード
  • 欲しい刀があればとりあげる
  • 神社の敷地を勝手に没収する
  • 名馬と聞くと「差し出せ」とねだる
  • 集めたお金を幕府のために使わない

などなど・・・要は、 欲しいものは必ず手に入れる そんな我が道を行っていたようです。これでは流石に周りも呆れていたようで、ついには信長も注意勧告を、それが「十七ヶ条のご意見書」です。

十七ヶ条のご意見書とは?

義昭のわがままっぷりに呆れた織田信長は、ついに義昭に対して殿中御掟(でんちゅうおんおきて)という意見書を提出します。今考えると、将軍に対して意見するなんてとんでも無いことですよね。それほど信長の権力が強大だったとも言えます。

以下、現代訳を簡単にまとめます。

十七ヶ条のご意見書

一、宮中参内を欠かさず行うようにお願いしていたのに、なさらないのはなぜですか?

一、諸国に手紙を出し、献上品を求めるのはなぜですか?必要なものがあれば私(信長)が用立てますのでおっしゃってください。

一、以前からよく働いてくれているものには褒美を与えず、新参者には与えているそうですね。それは非常に不公平であり、評判も悪いようです。

一、苦心して建造した御所から宝物などを移しているようですね?その話は巷で話題になっています。その話では私(信長)と中が悪いと噂が立っております。今度はどこへ移られるつもりですか?

一、賀茂神社の領地を没収し、石成友通に与えたそうですね。表向きには経費を負担するよう石成に言い、内実はそれほどしなくても良いと支持したと聞きます。そんな内密な話はよくありません。

一、私(信長)と友好関係のあるものは、妻や子供まで不当な扱いをされているそうですね。彼らは非常に迷惑しています。なぜそんなことをなさるのですか?

一、きちんと働いている者にちゃんと給料を払ってないそうですね?彼らは生活に困っています。

一、若狭の代官の訴訟の件、私(信長)ももっともだという進言をさせていただきましたが、まだ決済されてませんよね?なぜですか?

一、先日、喧嘩で亡くなった小泉の私物を没収されたと聞きました。悪事を働いていたわけでは無いので、法に基づいて処理してください。没収するのは将軍が欲深いと噂されますよ。

一、元亀(げんき)という年号は不吉なので改元した方が良いと進言しておりましたが。宮中からも催促されたそうですが、まだ費用を払われてませんよね?そのため延期されております。

一、烏丸光康を潮解した件ですが、密かに使いをおくり賄賂を受け取り許したそうですね。そのようなやり方は、他への悪影響となります。

一、諸国から金銀を受け取っているのに、それを宮中の費用に役立てず密かに溜め込んでいるそうですね。それはなぜですか?

一、明智光秀が地子銭(じしせん)税金のこと))を預かり、買い物代として預けていたものを、「その土地は延暦寺の土地のものだから」といって差し押さえたのは不当です。

一、昨年夏、幕府に備蓄されていた米を売って換金されたそうですね。将軍が商売するなど聞いたことありません。

一、若衆に扶持を与えたり、代官色に任命したり、どうりに合わない訴訟の申し立てに肩入れしたりするのはよくありません。世間から批判されてもしょうがないです。

一、将軍が金銀を蓄えているのは、側から見ると「将軍は京都から逃げるつもりか?」と思われます。上に立つものは自らの行動を慎むという教えを守ってください。

一、将軍が欲深いので百姓さえも悪御所と呼んでいます。なぜ陰口を言われるのかよく考えて下さい。

もし自分が将軍でこれを言われたとすると、身から出たサビとはいえ耐え難いですよね。

要約すると、

  • やるべきことをしっかりやってください。
  • きちんと働いた者にはきちんと褒美を与えてください、自分が気に入った者にだけ褒美を与えるのはよくないですよ。
  • 「お金のことばかり考えている」「自分の都合の良いことしかしない」と評判が悪いので、生活態度を見直してください。

こんな感じですかね。いやぁ、この後信長との関係が悪化していく理由がわかる気がしますね。

室町幕府を滅ぼしたのは信長?

信長の十七ヶ条のご意見書から、 信長と義昭との関係は悪化していきます 。そりゃそうですよね、ご意見書となっていますが、自分の家臣だと思っていた信長から私生活まで注意されているのですから。そして義昭は信長と敵対する勢力と手を組み、信長を倒そうと試みます。

信長包囲網では、誰が義昭に協力していたの?

義昭追放の発端となった信長包囲網は、1572年に武田信玄が京都に向かい始めたところから始まります。当時最強と言われていた武田信玄が京都に来るとなると、織田信長を倒すことができると考えた反信長勢力が挙兵を始めました。

足利義昭も、「これまでの屈辱をはらさん」と言わんばかりに、信長と敵対関係にあった 浅井氏  朝倉氏  三好氏  松永氏 、さらには 延暦寺  石山本願寺 などと同盟を結んでいきます。四方を囲まれた信長は苦戦を余儀なくされますが、 武田信玄の病没 により武田軍の帰国、これにより信長包囲網は事実上崩壊します。この信長包囲網では、「姉川の戦い」や「比叡山焼き討ち」など、義昭側は多大なる損害を被っています。

信長に京都を追放された義昭と室町幕府のその後

信長は、義昭を切腹させることもできたが命だけは助け、京都を追放し後世の人々の判断に委ねようと考えました。京都に入った時には、信長もお供に従い、 「誠に運の良い将軍様だ」 と尊敬され親しまれた義昭も、自らが鎧の袖を涙で濡らし 「貧乏性軍」 とあざ笑われたといいます。自らが招いたとはいえ、目も当てられないですね。


京都を追放された義昭は、転々としたのち最終的に中国地方の毛利氏を頼り、鞆(とも)に落ち着きます。そして、そこで細々と将軍職を続け 「鞆幕府」 と呼ばれています。
鞆幕府と呼ばれている時代にも、義昭はめげずに反信長の大名たちに手紙を送り最後まで信長と戦おうとしますが、本能寺の変にて信長が没したのち、秀吉から 「政治には一切関わらない」 という条件のもと京都に帰還することを許され、晩年を過ごします。

歴史上は、義昭が京都を追放された時点で室町幕府は滅んだと言われることもありますが、秀吉が平定するまでは将軍であり続けたことから、室町幕府が滅ぼしたのは秀吉と言えるかもしれませんね。

まとめ

今回は、織田信長と足利義昭の関係性についてまとめました。
信長のおかげで室町幕府 15代将軍になれた足利義昭。父のように尊敬していた織田信長に注意され、敵意を持ち始めた義昭。こうしてみると二人の関係は義昭の嫉妬が発端となり崩れていったように見えます。義昭は、人望も厚く市民に親しまれ、策に長け戦さにも強かった信長に嫉妬していたのかもしれませんね。「俺将軍なのに〜」的な感じが滲み出てます。
しかし、京都を追われてまで信長を伐とうしたその執念は凄まじいですね。

室町幕府最後の将軍「足利義昭」に関しては、以下の記事でも詳しく解説しています。

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