島津家の家紋「丸に十字」の意味や由来は?ルイヴィトンのモチーフにもなってる?

島津家の家紋「丸に十字」の意味や由来は?ルイヴィトンのモチーフにもなってる?

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島津家とは、鎌倉幕府の御家人だった島津忠久しまづただひさ(生誕未詳〜1227年(嘉禄3年) 8月1日)が家祖と言われています。鎌倉時代に、近衛家領の「島津荘」の下司職に任じられたことに始まり、長きに渡って南九州一帯を治めました。
多数の分家があり、薩摩島津氏が最も有名で、西郷隆盛や大久保利通らを生み出し、日本を近代化へと導いた島津斉彬(薩摩藩11代藩主・島津氏28代当主)がいます。

今回は、島津家が使用していた家紋「丸に十字」の紋の由来や意味はなんだったのか?世界的ファッションブランドのルイヴィトンを代表するデザイン「モノグラム」が島津家の家紋をモチーフにデザインされたという噂について、解説していきます。

島津家の家紋は「丸に十字」

島津家の家紋

島津家の家紋と言えば、「丸に十字紋」が有名ですが、そのほかにも使用していた家紋があります。

【島津家が使用していた家紋】

  • 丸に十字紋
  • 桐紋
  • 牡丹紋

島津家を代表する紋「丸に十字紋」は、島津家の祖である島津忠久が、鎌倉幕府を開いた源頼朝から授かったものといわれていますが、当初は丸がない「十字紋でした。

島津家がいつ頃から「丸に十字」を使用するようになったのか?また、どんな意味が込められているのか?詳しくみていきましょう。

島津家の家紋「丸に十字」にはどんな意味が込められている?

島津家の家紋「丸に十字紋」には、2つの諸説があります。

  • 二匹の龍をモチーフにしたという説
  • 出陣戦勝の祈念をしたという説

・二匹の龍説
二匹の龍を十字に組み合わせた型を表しており、互いに絡み合って昇天する様子だと言われています。
龍が昇天する姿が縁起が良いとされていたことから、縁起担ぎで使用されたと言われています。

・出陣戦勝の祈念説
1189年(文治5)、源頼朝が奥州藤原氏の征伐に出向いた際、箸を取って十字の形をつくり、島津忠久に「これを家紋とせよ」と命じたと言います。
十文字の「十」の意味は、十字を切るという意味で、厄災除けの護符として採用されたといわれています。

島津家の十字紋は、島津家の祖である島津忠久が源頼朝から下賜され、もともとは丸がない状態の「十字紋」でした。他にも「十字紋」を家紋として使用していた家も多数あったようです。
徳川幕府の時代になり、「十字紋」は礼装用の紋に転化され、多くの武家が外側に丸をつけるようになりました。島津家もこれにならい、「丸に十字紋」へと変化したようです。

幕末の名君との呼び名の高い島津斉彬しまづなりあきらもこの家紋を使っていたため、次第に他の家は島津家に遠慮し「丸に十文字紋」を使用しなくなったと言われています。

島津家の家紋「丸に十字」の由来は?

島津家の家紋 「丸に十字」 は、鎌倉幕府の初代征夷大将軍、”源頼朝” から下賜されたと言われています。その経緯をみていきましょう。

島津家の祖である島津忠久は、実は源頼朝の子ではないかと言われています。
島津忠久の母とされる丹後内侍たんごのないしは、源頼朝の乳母、比企尼ひきのあまの娘であると言われています。

源頼朝の妻の北条政子ほうじょうまさこ源頼家みなもとのよりいえを懐妊した際、丹後内侍が着帯の儀式で給仕を務めたそうです。
丹後内侍は、もともと源頼朝の寵愛を受けた妾だったとも言われています。

丹後内侍が子供を身籠った時、北条政子は自分よりも先に丹後内侍が妊娠したことに嫉妬し、丹後内侍は屋敷を追放されてしまいます。

そして摂津国(現在の大阪府)の住吉大社までたどり着き、雨の降る夜に狐火に照らされて産んだのが、島津家の祖である島津忠久だと言われています。

北条政子が屋敷を追放するほど激しく嫉妬したのは、島津忠久が丹後内侍と頼朝との間にできた子で、正室である自分よりも先に妊娠したことが理由ではないかと言われているのです。

しかし、島津忠久の父親は、歌人の惟宗広言これむねのひろこととも言われており、北条政子の勘違いだったのか、あるいは真実なのかは、はっきり分かっていません。

しかし源頼朝は、忠久誕生の知らせを受け「三郎」の名を与えるなど、その寵愛ぶりから頼朝父親説が浮上したのではないかと言われています。

1185年(元暦2年)に、忠久は頼朝と初めて対面し、頼朝の家臣 畠山重忠はたけやましげただから一字をもらい忠久と名乗る事になったと伝えられています。

そして、1185年(元暦2年)、わずか6才の忠久は、源頼朝から、当時日本最大の荘園 島津荘の地頭職に任命されます。

更にその後、守護職に任じられたことから「島津氏」を名乗ったことが島津家のはじまりとなりました。

このように源頼朝と島津家は非常に近い間柄にあり、島津家に代々伝えられている、茶の湯釜の八景釜や、血吸という刀も源頼朝から下賜されたといわれています。「十字の紋」もその一つです。

島津家の十字紋は、島津忠久が用いたと伝えられる大鎧の赤糸威大鎧あかいとおどしおおよろいや、蒙古襲来絵詞にも、十字紋の旗を掲げた島津勢が描かれていることから、鎌倉時代には島津家の家紋として確立していたと考えられています。

戦時の際の戦勝呪いや、悪いことが起こらないようにというお守りとしての意味、縁起担ぎとして、この家紋になったのかもしれませんね。

島津家の家紋「丸に十字」はキリスト教と関係がある?

島津家の家紋は、「丸に十字紋」、十字架によく似ているので、キリスト教と何か関係があるのでしょうか?

キリスト教が日本に伝わったの1549年(天文18年)、カトリック教会の宣教師フランシスコ・ザビエルによる宣教活動により拡まったとされています。

島津家の家紋「丸に十字」は、1189年(文治5)頃、キリスト教が日本に伝わる前から使用されていたと言われているので、キリスト教の十字架とは何の関係もないようです。

カトリック教会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島を訪れた際、
「島津家一族が紋章として白い十字架を使用していたことに驚いた」という記録が残っているようです。

島津家の家紋「丸に十字」はルイヴィトンのモチーフになっている?

世界的に有名なファッションブランドのルイ・ヴィトン。このルイ・ヴィトンを代表するデザインの一つである「モノグラム」は、島津家の家紋とよく似ており、「丸に十字」をモチーフにしたのではないかと言われています。

ルイ・ヴィトンのモノグラムの柄は、丸の中に星がデザインされたもので、1896年(明治29年) から使用されています。

この時代フランスでは、日本ブームが起きていました。
1867年(慶応3年)に開かれたパリ万国博覧会には、徳川家とともに薩摩藩が参加していたことがきっかけと言われています。パリ万博で島津家の家紋の入った品を日本の出展品として出しおり、 それを見たルイ・ヴィトンの関係者が、デザインの参考にし考案したといわれています。

島津家と直接的な関係はありませんが、ルイ・ヴィトンが商標権侵害で日本を訴えるということがありました。
日本に昔からある市松模様、これを数珠袋のデザインとして使用していた京都府の神戸珠数店が、ルイ・ヴィトン社から、「ルイヴィトンの国際商標登録に抵触する」として訴えられていた裁判で、ルイヴィトン側の訴えが退けられました。

2020年8月1日に、”ルイヴィトン”から”神戸珠数店”に対して「商標の侵害」との通報があり、ルイヴィトンが商標の判定請求を行いました。

ルイヴィトンの商品に使用されている「ダミエ」という柄が、神戸珠数店で販売していた数珠袋のデザインが酷似しているとして、ルイヴィトン社が商標権を巡って裁判を起こしていたのです。

判定では、

  • 市松模様は日本古来の織模様である
  • 商標権の効力の範囲には属さないとの判定を下している

として、ルイヴィトン社の訴えを却下しました。

そもそも、ルイヴィトンの「ダミエ」という柄も、島津家の家紋「丸に十字」 同様、「パリ万国博覧会で見た市松模様を参考にして考案されたものではないのか!」という記事も存在いるようです。

まとめ:島津家の家紋には鎌倉時代から続く、先祖代々の想いが込められている

島津家の家紋は、島津家の祖である島津忠久が源頼朝から下賜された歴史を感じる家紋でしたね。
今回の内容をまとめると、

  • 島津家の家紋は「丸に十字紋」「桐紋」「牡丹紋」の3種類
  • 島津家の家紋で最も有名な家紋「丸に十字紋」は、源頼朝から下賜されたもの
  • ルイ・ヴィトンのモノグラム柄は、島津家家紋の「丸に十字紋」をもとに考案されたと言われている

島津家の家紋「丸に十字紋」は、戦勝祈念や、悪いことが起こらないように、お守りとしての意味合いで使われてきたものだということがわかりました。現在でも、島津家の子孫が運営する島津興業や鹿児島県のお土産などでも使用されている丸に十字紋は、鎌倉時代から受け継がれていると考えると、歴史の深さを感じますね。

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