紫式部の死因は何?晩年はどう過ごした?墓所はどこ?最後の姿を簡単に解説!
紫式部(生没年不詳)は、平安時代中期に活躍した歌人・作家です。
『源氏物語』や『紫式部日記』などの有名な作品を残しています。
そんな紫式部の死因は何だったのでしょうか?
また、晩年はどのように過ごしていたのでしょうか?
この記事では、紫式部の死因について簡単に解説していきます。
目次
紫式部の死因は何?いつ死んだ?
紫式部は、宮仕えをしながら作品を作り続けるという生涯を歩みました。
そんな紫式部は、どのようにして亡くなったのでしょうか?
紫式部の死因はなんだったのでしょうか?
ここでは、紫式部の死因について簡単に解説していきます。
紫式部の死因は判明していない?
紫式部の死因は、実は判明していません。
なぜならば、紫式部には、晩年のあたりの正確な記録が全く残っていないのです。(紫式部のことを書いているのかもしれないという記録はあるのですが…。)
そのため、紫式部がいつ死んだのか、またなぜ死んだのかははっきりとわかっていません。
紫式部の死んだ時期については諸説ある?
当時の記録には、紫式部らしき人物のことが書かれているものがいくつかあります。
そのため、紫式部の死亡時期については、様々な説が存在しています。
- 長和3年(1014年)説 (岡一男)
- 長和5年(1016年)説 (与謝野晶子)
- 寛仁元年(1017年)以降説 (山中裕)
- 寛仁3年(1019年)説 (萩谷朴、今井源衛)
- 万寿2年(1025年)以降説 (安藤為章)
- 長元4年(1031年)説 (角田文衛)
以上のように、紫式部の死亡推定時期には、約17年もの開きがあります。
享年にしてみれば、36歳〜61歳の間ということになります。
明確な記載がないため、全て推測の域を出ず、紫式部の死亡時期を特定することは難しいようです。
紫式部の死んだ時期を与謝野晶子も言及している?
紫式部の死亡時期については、様々な説が存在していますが、与謝野晶子もそれについて言及しています。
与謝野晶子が唱えた説は、以下のとおりです。
『小右記』にて紫式部の父・藤原為時は、1016年に越後守の任期を1年残したまま帰京し、その後そのまま出家してしまうのです。
藤原為時がこのような行動を取ったのは、よほど近しい身内が亡くなったと考えるのが妥当であり、それが紫式部だったのではないかと考えました。
つまり、与謝野晶子は、以上のことから「紫式部の死亡時期は1016年」としています。
紫式部は晩年をどう過ごした?
紫式部の死因ははっきりとは判明していませんでした。
それでは、晩年はどのように過ごしていたのでしょうか?
ここでは、紫式部の晩年について簡単に解説していきます。
紫式部の生存が確認できる最後の記録は?
紫式部の晩年を述べたもので、確実に紫式部のものだと断定できる記録があります。
それは、藤原実資の『小右記(しょうゆうき)』です。
小右記の長和2年5月25日の記述の中に、ある1人の女房が登場します。そして、この女房には注釈がされており、「越後守為時女」と記されているのです。
「越後守為時」とは、藤原為時、つまり紫式部の父親を指しています。そして、その女とは、娘のことを指すので、つまり紫式部のことを指しているのです。
そして、これが本当に紫式部だとすると、紫式部は長和3年頃にはすでに宮廷を去っていたのではないかとも考えられています。
しかしながら、これの他に紫式部の晩年の動向を断定できる記録はなく、結局のところ晩年をどう過ごしていたかというのはわかっていません。
紫式部は死後に称えられた?
紫式部は、『源氏物語』や『紫式部日記』などの日本文学史に残る作品を生み出しました。
その結果、死後に様々なところで称えられています。
まず、三十六歌仙の1人に選ばれました。
また、1966年には、日本人として初めてユネスコの「偉人年祭表」に加えられます。
さらに、現在では日本銀行券の2000円札の裏面に、小さな肖像画と『源氏物語絵巻』の一部が採用されています。
このように、様々な場所で、紫式部は死後も称えられているのです。
紫式部の墓所はどこにある?
紫式部は死因もいつ亡くなったのかもはっきりとはしていません。
しかし、そんな紫式部の墓所は存在しています。
紫式部の墓所はどこにあるのでしょうか?
ここでは、紫式部の墓所について簡単に解説していきます。
紫式部の墓所は小野篁の墓所と隣り合っている?
紫式部の墓所だと伝えられているものが、京都市北区に残されています。その隣には、小野篁の墓所も存在しています。
この場所は、淳和天皇の離宮があり、紫式部が晩年住んでいた場所だとされ、後に大徳寺の別坊となった雲林院白毫院の南にあたります。
【紫式部の墓所】
住所:京都府京都市北区紫野西御所田町
料金:無
駐車場:無
紫式部は地獄に落ちたと言われていた?
紫式部の墓所は、なぜ小野篁の墓所と隣り合っているのでしょうか?
これには、深いわけがあります。
紫式部は、『源氏物語』にて、当時としてはだいぶドロドロとした人間関係を描きました。
そのことで、風紀を乱し人々を惑わしたということで、巷では「紫式部は死後に地獄に落ちた」と言われてしまうようになったのです。
しかし、紫式部のファンはたくさんおり、そのファンたちが「紫式部を地獄から救いたい!」と立ち上がります。
そこで目をつけたのが、小野篁でした。小野篁は、平安時代の歌人ですが、なんと閻魔大王の補佐役をしていたという伝説もあるのです。
そのため、小野篁の執り成しで、紫式部の罪を許してもらおうと考えたわけですね。
こうして、紫式部の墓所は、小野篁の墓所と隣り合うこととなったのです。
まとめ:紫式部の死因ははっきりしておらず、いつ亡くなったのかも判明していなかった
紫式部の晩年について明確に書かれた資料は、ほとんど無く、いつ亡くなったのかも死因も判明していませんでした。
今回の内容をまとめると、
- 紫式部の晩年について書かれた資料はほとんど残っていない
- 紫式部は、死亡時期も死因も判明していない
- 紫式部の死亡時期についての推測は、いくつも説が存在している
紫式部の生きていた時代からは、現在はもう1000年以上経っています。
しかし、今でも『源氏物語』は読み続けられていますし、お札の顔として馴染み深い存在にもなっています。いかに紫式部が偉大で人気があるのかということが伺えるでしょう。