高杉晋作の年表|どんな人だった?功績や名言、辞世の句などを簡単に解説!
高杉晋作は、日本の大きな変革期である幕末を生き、「幕末の寵児」と呼ばれた人物です。高杉晋作は、吉田松陰の思想を受け継ぎ奇兵隊を組織したり、長州藩の代表として連合艦隊と交渉をしたりと、幕末に大きな活躍をしています。
今回は若くして日本を動かした高杉晋作はどんな人物だったのか?年表をもとに、その功績や名言を解説していきます。
目次
高杉晋作はどんな人?
高杉晋作生年月日:1839年(天保10年)〜没年月日:1867年(慶応3年)
- 父:高杉 小忠太(1814年(文化11年)(~1891年(明治24年))
- 母:ミチ(?~1897年(明治30年))
- 妻:雅子(1845年(弘化2年)~1922年(大正11年))
- 子供:東一(1864年(元治元年)~1913年(大正2年))
高杉晋作は明治維新に大きく貢献した時代の寵児でした。
松下松陰:1830年(文政3年)~1859年(安政6年)と出会ったことにより、高杉晋作の人生は大きく変わりました。吉田松陰の教えを深く学んだ高杉晋作は、奇兵隊を設立したり、長州藩の代表として連合艦隊との交渉にあたったり様々な活動を行いました。しかし高杉晋作は29歳の若さで亡くなり、幕府の崩壊と新しい時代の幕開けを見ることはできませんでした。
高杉晋作の年表を簡単に解説
- 1839年(天保10年) 0歳
長州藩萩城下に生まれる - 1857年(安政4年) 19歳
松下松陰塾に通い始める - 1859年(安政6年) 21歳
師である吉田松陰が安政の大獄で処刑される - 1860年(万延元年)22歳
雅子と結婚する - 1862年(文久2年) 24歳
上海に行く - 1863年(文久3年) 25歳
下関で奇兵隊を設立し、初代総督になる - 1864年(元治元年)26歳
長州藩の代表として連合国と交渉する - 1865年(慶応元年)27歳
大田・絵堂の戦いで決起軍が勝利する - 1866年(慶応2年) 28歳
四境戦争(第二次長州征伐)で長州軍が勝利する - 1867年(慶応3年) 29歳
下関で死去
高杉晋作は1839年(天保10年)に長州藩で生まれました。この時の長州藩は貧しく、高杉晋作も幼い頃から農作業をしていたと言われています。また、幼い頃は非常に厳しく育てられ、毎晩遅くまで勉強していたそうです。
その後、19歳で吉田松陰と出会い、勉学に励むようになります。
「日本がよりよくなるにはどうしたらよいのか?」を考えていた高杉晋作は、縁あって上海を視察することになり、そこで外国人に虐げられる清国の人々を目の当たりにします。
「このままでは日本も同じようになる」と思った高杉晋作は、時代を変える必要があると決意し、奇兵隊を設立したり、長州藩の代表として連合国と交渉したりと、人々の先頭に立ち活動を続けました。
しかし、高杉晋作は病に倒れ新時代の到来を目にすることはなく、29歳の若さで亡くなってしまいます。
高杉晋作の功績を簡単に解説
高杉晋作は激動の幕末において、数々の功績を残したものの、自らは幕府の崩壊と新しい時代の幕開けを見ることはありませんでした。しかし、高杉晋作の功績無くしては今の日本はありません。人々の先頭に立ち、奇兵隊の設立や連合国との交渉を行い、幕府との戦いでは長州藩の戦いに勝利をもたらしました。
【高杉晋作の功績一覧】
- 奇兵隊を設立し、幕府と戦った。
- 長州藩を代表して連合国と堂々と渡り合った。
- 不利な状況ながら幕府軍に勝利した。
高杉晋作の功績1|「奇兵隊」を設立した
1863年(文久3年)、幕府は攘夷を決行すると朝廷に約束していましたが、実際に行動に移したのは長州藩でした。しかし、長州藩は馬関海峡を通る外国船に発砲しますが返り討ちにあい、圧倒的な力を見せつけられてしまいます。
この状況にしびれを切らした高杉晋作は、奇兵隊を設立しました。奇兵隊とは正式な兵である「正規兵」の反対語です。奇兵隊では身分よりも志が重要視され、農民も多数参加しています。彼らは、日本を守るという強い意思を持って戦いに参加していました。また、個人の判断が重んじられ自分で考えて攻めるため、変幻自在な攻撃ができたと言います。
【奇兵隊の主要メンバー】
- 山縣有朋:1838年(天保9年)~1922年(大正11年)
長州藩の足軽として生まれ、松下村塾に入った後、尊王攘夷運動に参加しました。
人気漫画・るろうに剣心のキャラクターとしても登場しています。 - 吉田稔麿:1841年(天保12年)~1864年(元治元年)
萩藩に生まれ、松下村塾に入りました。高杉晋作や久坂玄瑞(1840年(天保11年)~ 1864年(元治元年)と並んで三秀と呼ばれるほど由修な人物でした。 - 片山東熊(1854年(嘉永6年)~ 1917年(大正6年)
萩藩に生まれ、奇兵隊に入隊し戊辰戦争を経験した後、工部大学校(東京大学工学部の前身)を卒業しています。
同期には有名な建築家の辰野金吾(1854年(嘉永7年)~1919年(大正8年))がいました。また、東熊自身も建築家として活躍しました。
高杉晋作の功績2|長州藩の代表として連合国と交渉した
奇兵隊を設立した高杉晋作でしたが、奇兵隊と長州藩の間に起こった衝突の責任を取り、責任者を辞任しています。さらに、長州藩では「朝廷を守るのは自分たちしかいない」という考えの者たちが現れ、高杉晋作は彼らを止めるため脱藩し、京都へ行ったことが咎められ、野山獄に投獄されてしまいます。
この時、長州藩は連合国に攻撃され敗北者として連合国との話し合いに臨まなければならなくなりました。
窮地に立たされた長州藩は、この交渉の代表者に高杉晋作を任命、交渉役となった晋作は、毅然とした態度で連合国の要求を断り、見事その大役を成し遂げたのでした。
高杉晋作の功績3|長州軍を勝利へ導いた
連合国との交渉に成功した長州藩でしたが、幕府はそれを面白く思っていませんでした。そのため、幕府は長州藩を征伐することになりました。この時、ことを穏やかにおさめたかった薩摩藩の働きもあり、長州藩は下記の三家老の首を差し出し、幕府に従ったような形になりました。
【差し出された三家老】
- 国司親相:1842年(天保13年)~1864年(元治元年)
- 益田親施:1833年(天保4年)~1864年(元治元年)
- 福原元僴:1815年(分化12年)~1864年(元治元年)
これに危機感を持った高杉晋作は、決起することを決意。出陣した晋作たちは、馬関新地、三田尻、大田・絵堂など次々に陥落させました。そして、高杉晋作らの心意気に打たれた部隊が次々と決起しました。
それと同時に、幕府も長州藩を攻撃する準備を進め、1866年(慶應2年)、幕府軍は長州に押し寄せ、四境戦争が開戦。この時、幕府軍は15万の兵を従えていましたが、対する長州藩は僅か4千の兵でした。力の差から幕府軍が圧勝すると思われましたが、高杉晋作の指揮で幕府軍に奇襲をかけ、次々と勝利をもぎ取っていったのです。
そして、14代将軍・徳川家茂:1846年(弘化3年)~1866年(慶応2年)が亡くなると幕府軍の戦意は衰え、長州藩は小倉城を陥落させます。これにより、幕府軍と長州藩の間に停戦協定が結ばれ、大方の予想を裏切り幕府軍が撤退するという結末になりました。
高杉晋作の性格はどうだった?
高杉晋作は、家族が心配するほど破天荒な性格だったそうです。師匠である吉田松陰が安政の大獄で処刑された後、失意にどん底に落ちた高杉晋作が、何をするかわからないと言う理由から、家族が結婚を勧めたと言われいるくらいです。結婚すれば、高杉晋作が落ち着くと思ってのことだったようです。家族に心配されるほど活動的だったのですね。
【高杉晋作の性格】
- 高杉晋作の性格は、英国公使館を焼き討ちするほど破天荒な性格だった
- 高杉晋作の性格は、連合国と堂々と渡り合うほど肝が据わっていた
- 高杉晋作の性格は、歌を愛するなどロマンチックな一面もあった
また、高杉晋作は歌も好きで、折り畳み式の三味線を持ち歩いていたそうです。日本の難局に立ち向かいながらも、楽しむことは忘れなかったのでしょう。
高杉晋作の性格がわかるエピソード
高杉晋作は、見聞を広めるために1862年(文久2年)上海へと渡りました。しかし、そこで目にしたのは植民地化された清国の姿でした。この状況を目にした高杉晋作は、このままでは日本が同じようになると感じ、攘夷活動を活発化させます。
手始めに、品川に建設中だった英国公使館を焼き討ちします。現代で考えると、国際問題に発展するテロ行為です。
また、都々逸が好きだった高杉晋作は、遊郭の遊女に対して
「三千世界の鴉を殺し 主と朝寝がしてみたい」
という歌を送っています。
歌の解釈については諸説ありますが
「朝になって烏が鳴けば私は帰らないといけないが、世界の烏を全て殺してでも、お前とゆっくり朝を迎えたいものだ」という意味です。
意外にロマンチックな言葉も残していますね。
破天荒で行動力があり、それでいてロマンチックな一面もある、それが高杉晋作です。
高杉晋作の名言を簡単に解説
高杉晋作の名言といえば、辞世の句である
「おもしろきこともなき世をおもしろく、すみなすものは心なりけり」
ですが、他にも人の心に訴えかける言葉を残しています。
今回はその中の一つをご紹介します。
「人間、窮地に陥るのはよい。意外な方角に活路が見出せるからだ。しかし、死地に陥れば、それでおしまいだ。だから、おれは困ったの一言は吐かない。」
人間、誰しも「どうしよう・・」と思うことはあります。
高杉晋作は窮地に陥ろうとも、それをバネに新しい活路を見出そうとする不屈の精神を持っていたのでしょう。
「窮地に陥っても諦めてはいけない!」と高杉晋作から鼓舞されているような言葉の一つです。
高杉晋作の辞世の句
四境戦争で幕府を下した高杉晋作でしたが、その体は病に侵されていました。戦いを終えた晋作は、山口県下関市で療養生活を送ります。この時長州藩は、高杉晋作に百石を与え、当主として死を迎えさせようとしました。
高杉晋作の功績をたたえるためでしょう。しかしほどなくして、晋作は29歳の若さで亡くなってしまいます。
高杉晋作が読んだ辞世の句は
「おもしろきこともなき世をおもしろく、すみなすものは心なりけり」
これは「面白くない世の中でも、面白くできるかどうかは自分次第であり、結局のところ、自分の心 次第である。」
と言う意味です。如何なる時も、自分の信念に基づき行動した高杉晋作らしい言葉ですね。
まとめ:高杉晋作は激動の幕末を、堂々と生き抜いたが若くして亡くなった
高杉晋作は若いときから、日本の将来を憂い、自分の信念に基づいて活動してきました。数々の功績をおさめ、今の日本があるのは、高杉晋作のおかげと言っても過言ではありません。
今回の内容をまとめると
- 高杉晋作は奇兵隊を設立し、身分よりも志を重んじて隊を結成した
- 連合国と堂々と交渉し、窮地に立った長州藩を救った
- 15万の兵を持つ幕府軍にたった4千の兵で立ち向かい、見事勝利をおさめた
- 破天荒な性格で、家族に心配されるほどだった
- 数々の偉業を成し遂げたが29歳の若さで亡くなった
残念ながら晋作は29歳という若さでこの世を去りました。
高杉晋作自身も、新しい時代の幕開けを自身の目で確かめたかったことでしょう。