徳川家康のエピソードを紹介!健康オタクだった?短気?意外な一面もあった?

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徳川家康(1543(天文11)〜1616(元和2))は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将です。織田信長、豊臣秀吉と並んで戦国三英傑と呼ばれており、天下を統一して江戸幕府を開きました。

また、2023年の大河ドラマ『どうする家康』では、松本潤さんが徳川家康役を演じるということで注目が集まっています。

そんな徳川家康には、様々なエピソードがあり、一般的に辛抱強いというイメージとはかけ離れた意外な一面も見えてきます。
この記事では、徳川家康に関するエピソードを簡単に解説していきます。

徳川家康は辛抱強い性格だった?

家康は一般的に辛抱強い性格だというイメージがついています。どうしてそのようなイメージがついたのでしょうか?また、本当に辛抱強かったのでしょうか?ここでは、家康の辛抱強い性格を表しているエピソードを簡単に解説していきます。

徳川家康の性格を表した狂句とは?

徳川家康の性格を表す狂句として、

「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥(ホトトギス)」

というものがあります。これは、織田信長と豊臣秀吉、そして徳川家康の戦国三英傑の性格をそれぞれ表した狂句となっています。

織田信長:「鳴かぬなら殺してしまえ時鳥」
豊臣秀吉:「鳴かぬなら鳴かせてみせよう時鳥」

この狂句からわかるように、家康は辛抱強い性格であったと言われています。

というのも、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝って天下を取ったのが59歳の時、

大阪夏の陣に勝って、最大の敵対勢力であった豊臣家を滅ぼし、安定政権を確立したのが74歳の時でした。

だいぶ高齢で権力を手にしたということがわかりますね。

徳川家康の周りには猛者ばかりいましたから、この歳になるまでひたすら耐えて耐えて、着実に足場を固めていったのです。

また、「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥」という狂句は、江戸時代末期には家康の狂句として広く人々に定着していたとされており、江戸時代の人々も徳川家康が忍耐強かったと認識していたことが伺えます。

\ 徳川家康の性格については、こちらの記事でも詳しく解説しております /

徳川家康の性格は?人柄は?どんなタイプだった?エピソードとともに解説!

徳川家康の辛抱強さは人質になった経験から培われた?

徳川家康は実は幼少期を人質として過ごしています。
人質になってしまったのには、徳川家康が生まれた場所に原因が有ります。

松平家が領有していた三河の地は、駿河・遠江を領有する今川家と、尾張の実力者である織田家の間で板挟みにあっており、松平家は非常に弱い立場でした。

そのため、家康の父・広忠は両者の抗争に巻き込まれないように、今川家に援護を頼んでいました。この頃までは、家康には何も被害はありませんでした。

しかし、徳川家康が3歳くらいの頃のこと、母・於大の実家である水野家が織田家と同盟を結びます。

この同盟が、今川家ににらまれる原因になるのではないかと危惧した広忠は、於大を離縁するのです。当時、家康は3歳というまだまだ母親に甘えたい年なのに、母親がいなくなってしまうわけですね。

これだけでも相当かわいそうですが、さらに家康に苦難が襲いかかります。

今川家が松平家を守る代償として、家康を人質にしろと要求してきたのです。

こうして、家康は今川家に人質に行くことになりました。しかしその今川家に向かう途中、今川家の家臣の裏切りによって織田家の人質にされてしまうのです。

そして、織田家の人質となっていた家康ですが、後に今川家が織田信広を捕虜としたことにより、人質交換が行われ、今川家に戻されることとなります。

人質になることは、ただでさえ不安でたまらないでしょうに、こんなたらい回しにされてはたまったものではないですよね。しかし、この経験が、家康の忍耐強さを作り上げていったのでしょう。

徳川家康はけちな健康オタクだった?

徳川家康は、実はケチな健康オタクだったという話も存在します。

天下をとるまでに至った人物が、裕福でなかったはずがないですよね?
それなのに、なぜ徳川家康はけちっていたのでしょうか?
そこには、徳川家康なりの考えがありました。
ここでは、徳川家康のけちな健康オタクのエピソードを簡単に解説していきます。

徳川家康は質素倹約を心がけていた?

徳川家康は、非常に質素倹約を常に心がけていました。
自分がどれだけ裕福になろうとも、主食は麦飯とし、焼き魚や野菜の煮物、納豆をよく食べており、それ以上は食べすぎないように気をつけていました。

もちろん健康に気をつけていたということもありますが、それだけではありません。

ある夏、徳川家康に家臣が米飯を出したところ、

「戦ばかりで百姓に苦労をかけているのに、最も食料が不足する夏に自分だけ贅沢はできない」

と、たしなめたそうです。

このように、自分だけが幸せになるのではなく、自分の領民の幸せも願っていたのです。

また、徳川家康は自分が倹約するだけではなく、家臣たちにも質素倹約を教え、贅沢な屋敷を建てないように命令します。

もちろん、徳川家康自身も質素な屋敷に住んでいたと言われています。

その他にも、着物はほとんど新調せずぼろぼろになるまで着ていたり、洗濯の回数を減らすために、汚れが目立たない浅黄色のふんどしを着用していたりと家康の質素倹約エピソードはたくさんあります。

しかし、徳川家康は決してケチだったというわけではありませんでした。

使うときにはしっかりと使うという一面も持ち合わせていたのです。

その証拠として、織田信長を接待したときには、趣向を凝らして豪勢にもてなしていたそうです。

普段は質素に、必要な時は豪快に使う、堅実な性格だったようですね。

徳川家康は独学で薬を作っていた?

徳川家康は健康オタクであるが故に、薬作りを趣味としていました。

駿府城外には家康が開いた薬園もあったそうです。

調合した漢方薬は、「万病丹」「銀液丹」と名付け、小さな入れ物に入れて携帯して、常服していました。
孫の家光が病に罹ったときも、徳川家康が直々に薬を調合して飲ませたと言われています。

徳川家康はスポーツマンだった?

徳川家康が健康のために気をつけていたのは、食事面や薬だけではありません。
身体を動かすことも怠りませんでした。主にやっていたのは、水泳と鷹狩です。

水泳は幼少期から泳ぎ慣れていることもあり、お手の物で、息子に自ら泳ぎ方を教える場面もあったそうです。

また、夏になれば子どもや家臣たちを連れて、近くの岡崎の川で泳いでおり、これが毎年の夏の恒例行事になっていたようです。

さらに徳川家康は、69歳のときに駿河の瀬名川で泳いでいたという記録も残されています。

長生きするだけでも大変な時代に、70歳手前の老人が川で泳いでいたというのですから、その体力に驚かされます。

大名の趣味として広く親しまれた鷹狩も、徳川家康はその生涯で1000回以上行ったとされています。

しかし、徳川家康の鷹狩の仕方は少し独特なものでした。

ただ獲物を狩るというだけではなく、予めコースを決めておき、そこを徒歩で回るのです。
そして、たとえ獲物を一匹も狩れなかったとしても、必ず最後までコースを回ることを徹底していました。

つまり、趣味の範囲に留めず、体力維持の健康のためにもしていたということですね。

この他にも、徳川家康は武芸を幅広く行っており、剣術は奥山流をはじめ、2、3の流儀を習得していますし、砲術にも長けており、その実力は家臣を寄せ付けないほどのものだったとか。

このように、食事面に気をつけ、身体を常に動かし、薬を常服していたことにより、家康は健康的な身体を手にしていたのです。
当時の平均寿命は40歳、73歳まで生き延びた家康は相当健康であったことが伺えます。
そして、そこまで生き延びることができたからこそ、天下を狙うのにじっくりと時間をかけることができたのでしょう。

徳川家康は実は短気だった?

辛抱強いことで定評のある徳川家康ですが、実は短気だったという話もあります。

「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥」という言葉からは、とてもではないけれど想像できませんよね。
ここでは、徳川家康の短気なエピソードを簡単に解説していきます。

徳川家康は幼少期から負けず嫌いだった?

徳川家康は幼少期からとても負けず嫌いでした。

それをよく表しているのが、人質にとられている際のエピソードです。

駿府の今川館で過ごしていたときのこと。

ある正月に今川家の家臣たちが集まる機会があったのですが、その場に人質である徳川家康も居合わせていました。

家臣たちは、徳川家康を見るなり「あれが三河のいくじなしの小倅か」と皆で笑ったのです。

それを受けて家康は怒り、縁先に立って、なんと小便をしました。

本来ならば人質という肩身の狭い身では、侮辱されても泣き寝入りするしかない場面でした。
しかし、徳川家康は大胆にも周囲をあざ笑うかのごとく立ち小便を決めるのです。

徳川家康の度胸とプライドが垣間見えるエピソードですね。

徳川家康は短気が原因で戦に負けた?

若い頃の徳川家康は晩年の忍耐強いイメージとは違い、とても短気で、とりわけ戦場ではいつもイライラしていたようです。
その証拠に愛用の軍配は噛んだ歯形でいっぱいだったとも伝えられています。

その短気が災いして失敗してしまった戦、それが三方ヶ原の戦いです。

この戦いで、徳川家康は武田信玄の罠にハマってしまい、手痛い敗北を喫しています。
家臣の意見に耳を傾けず、無謀な突撃をしてしまったことを深く反省し、このときのことを忘れないようにと、敗北した自分の姿を肖像画に残しました。

そして、冷静さを取り戻した家康は、「空城の計」を用いて、武田軍にそれ以上の追撃を断念させたのです。

このように、失敗をしっかりと反省することができ、次に繋げることができる、そんな人物だったのです。

徳川家康は冷静沈着だった?

天下を取るまでに至った徳川家康は、どんなときでも冷静沈着だったと言われています。

それは意外な場面でも発揮されていました。

ここでは、徳川家康の冷静沈着なエピソードを簡単に解説していきます。

徳川家康は馬上で脱糞しても冷静に対処した?

三方ヶ原の戦いにて、徳川家康は武田信玄に大敗を喫し、命からがら逃げ延びました。
実はその際、敗走する馬上で家康はあまりの恐怖から脱糞をかましてしまったのです。

なんとか逃げることに夢中で、徳川家康は自分が脱糞したことに気づいていませんでした。
そこに、家臣がやってきて、家康が脱糞していることを指摘すると、冷静にこう言い放ちました。

「これは糞ではなく、腰につけていた非常食の味噌だ」

大の大人が脱糞したとなっては、恥ずかしさから口を閉ざしてしまいそうな場面ですが、味噌だと言い切るなんて、さすが徳川家康は大物ですね。

徳川家康は「海道一の馬乗り」だった?

小田原征伐の際の話です。
秀吉の命令で、徳川家康は小田原に向けて行軍し、谷川を渡るために、とある橋の前にさしかかります。

その橋は、馬が一頭やっと通れるか通れないかくらいの細い橋でした。

そこへ、丹羽長重、長谷川秀一、堀秀政の3人が近くの丘の上に来ました。

3人は「海道一の馬乗り」の異名を持つ家康が、この細い橋をどのようにして渡るのかが気になり、固唾をのんで見守ることにしました。

しかし、徳川家康がとった行動は意外なものでした。

なんと、自身の馬からさっと降り、馬を雑兵に渡したのです。

雑兵は徳川家康の馬を引きながら渡っていきます。
そして、本人は兵に背負われて橋を渡っていくではありませんか。
この様子に、3人の兵らは爆笑します。

しかし、3人はこの姿を見て、「さすが」と思ったのです。

それはなぜか?彼らは真の達人というものを知っていたからです。

真の達人は、どのような状況でも決して慢心することはなく、危険を冒さないもの。

そして、徳川家康は、自分の馬術の流派である大坪流の教えである

「危険な場所では馬から降りて歩くべし」
というものを忠実に守っていたのです。

行軍のあとに待っているのは、大切な戦いです。

その戦いの前に怪我をしたとなっては話になりません。
徳川家康にもきっと見栄を張りたい気持ちがあったでしょう。

しかし、冷静に目的を見失うことなく、基本を忘れなかったからこそ、このような行動がとれたのです。

徳川家康は家臣をとても大事にしていた?

天下を統一した徳川家康には、とても多くの家臣が存在していました。

その家臣の多くは、徳川家康のためならば命を投げ売っても良いと考えるような人達ばかりです。

なぜ徳川家康はそこまで家臣に慕われていたのでしょうか?
ここでは、家康の家臣とのエピソードを簡単に解説していきます。

徳川家康は家臣に優劣をつけずに大事にした?

奥州九戸の九戸政実の乱の時のエピソードです。
徳川家康は武州岩附まで出陣しました。
そして、そこで井伊直政に
「出陣して蒲生・浅野と協力し、九戸の軍事を計るように」
と命じます。

このことを聞いた本多正信は、

「直政は重要な執権です。この度の討て手はまず下の者をつかわし、もし叶わないときにこそ、直政をつかわすのが妥当ではありますまいか」

といいました。

すると家康は、

「それは思慮のない者、北条氏直などがすることだ。なぜならば、最初に軽い者をつかわして埒が明かないからといって、次に重い者をつかわせば、最初に行った者は面目を失い、討ち死にするほかはない。理由もなく家臣を殺すことになるのは惜しいことだ」

このように言い、自分の意見を曲げることはありませんでした。
徳川家康が家臣に優劣をつけず、全ての家臣を大事に思っていたことがよくわかるエピソードですね。

徳川家康は豊臣秀吉に部下を宝だと言い放った?

秀吉が関白であった頃、諸大名を集めて自分の持つ宝物を自慢していたことがありました。
その際、秀吉は家康に
「お前はどんな宝物を持っているのか」
と尋ねました。

それに対して、家康は、

「私は田舎の生まれですので、これといった秘蔵の品はありません。しかし、私のために命をかけてくれる武士が500騎ほど配下におります。この侍たちを何にも代えがたい宝と思って、いつも秘蔵しています」

と答えたそうです。

この答えにさすがの秀吉も二の句が継げなかったと言われています。

これにより徳川家康は、絶頂期の秀吉に対しても、臆さずに家臣を宝だと返すことで義を示し、同時に精鋭部隊の存在をその場にいる全員にアピールすることに成功しているのです。
このように、家臣を大事にしつつ、抜け目なく根回しをしているところが、徳川家康の勝利の秘訣だったのかもしれませんね。

まとめ:徳川家康は常に自己研鑽を忘れなかったため天下を取れた

徳川家康は、どれだけ権力が大きくなろうとも決して慢心することなく、食事をあえて質素なものにしたり、スポーツなどをして身体を動かすことを常にしていたりと、自己研鑽を怠りませんでした。
そのため、長生きすることができ、遅くなっても天下を取ることに成功したのです。

今回の内容をまとめると、

  • 徳川家康は幼少期の人質経験があったからこそ辛抱強い心が育てられた
  • 健康オタクで、食事を気をつけていたり、自分で薬を調合したりしていた
  • 常に身体を動かすことを意識していた
  • どんな場面でも冷静沈着に対応することができた
  • 家臣のことを宝だと言い張れるくらい大事にしていた

徳川家康のエピソードを見ていると、多くの人達に慕われ、また警戒されていたということが伺えます。この徳川家康がいなかったら、きっと江戸幕府は約260年も続いていくことはなかったでしょうね。

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