柴田勝家と秀吉は、なぜ賤ヶ岳の戦いで戦ったのか?もともと仲が悪かった?
柴田勝家と羽柴(豊臣)秀吉は、もともと織田信長に仕えていた戦国武将です。
本能寺の変で織田信長が討たれたあと、力を大きくしていった羽柴秀吉と柴田勝家は、天正11年4月(1583年)に賤ヶ岳の戦いで争い、柴田勝家の自害でその幕を下ろしました。
これに勝利した秀吉は亡き織田信長が築き上げた権力と体制を継承し、天下人への第一歩となりました。
なぜ柴田勝家と秀吉はこのような激しい戦いをするようになったのでしょうか?
もともと2人は仲が悪かったのでしょうか?
今回は、柴田勝家と秀吉はもともと仲が悪かったのか?なぜ賤ヶ岳の戦いで争ったのかについて、前後の背景なども踏まえて、簡単に解説していきます。
目次
柴田勝家と秀吉が争った賤ヶ岳の戦いを簡単に解説!
賤ヶ岳の戦いは、天正11年4月(1583年)、近江国伊香郡の賤ヶ岳付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦いです。
【賤ヶ岳の戦いが起こった経緯】
- 天正10(1582)年6月2日、本能寺の変で織田信長が討たれる
- 1582年(天正10年)6月27日、織田家の後継者と遺領の配分を決めるための「清洲会議」が行われた
- 両者の意見が対立し、秀吉の推す信長の嫡男、織田信忠の子である三法師が跡継ぎに決まる
- 柴田勝家と秀吉の意見が対立
山崎の戦いでの秀吉の功績が評価され、遺領の配分や信長の葬儀など、全て秀吉が主導で行われた - 柴田勝家は秀吉への不快感を募らせ、織田勢力を二分するほどの激しい戦いと「賤ヶ岳の戦い」が勃発
- 柴田勝家が妻・お市の方と共に自害という形で、幕を閉じた。
賤ヶ岳の戦いはなぜおこったのか?
もともと、織田信長に仕えていた柴田勝家と秀吉。
主君である信長が討たれたことで、その後継者を決めるための清洲会議から、柴田勝家と秀吉は争うようになったのです。
1582年(天正10)6月13日に、織田信長の仇とも言える明智光秀を、山崎の戦いで秀吉が討ち取り、敵討ちを果たしました。
同年6月27日、尾張国の清洲城には池田恒興、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉の4人が集い、清洲会議が開かれました。
清洲会議では、織田信孝を推す柴田勝家と、三法師(織田秀信)を推す羽柴秀吉が対立します。
後継者が秀吉の推す三法師に決まったことで、両氏の対立は徐々に激化。
12月20日、秀吉は岐阜城の織田信孝を降伏させると、賤ヶ岳一帯の高地に陣を張ります。
12月7日、秀吉軍は柴田勝家の養子である勝豊が守る長浜城を落とし、再び賤ヶ岳に戻った秀吉は、大岩山砦を落とした佐久間盛政を討ち取ると、別所山に陣取っていた前田利家を退却させます。
秀吉軍は、越前へと退却をした柴田勝家軍の城を囲み、柴田勝家は4月23日、妻のお市の方とともに自害し賤ヶ岳の戦いは幕を閉じました。
柴田勝家は秀吉になぜ敗れたのか?敗因は?
柴田勝家が敗れた一番の敗因は、天候を味方にできなかったことと言われています。
当初、柴田勝家は始めは味方も多く、加賀の佐久間盛政と能登の前田利家も味方についていましたが、秀吉軍は5万人、勝家軍は3万人と圧倒的な兵力差がありました。
秀吉は、1582年(大正10年)12月7日に、越前にいた勝家軍が雪に阻まれ身動きが取れずにいるタイミングを狙い、勝家の養子である勝豊が守る長浜城を落とします。
慌てた勝家軍は、翌1583年(天正11)3月9日、大軍を率いて出発します。
3日後に柳ヶ瀬に陣を張った柴田勝家が、各武将にも近隣に陣を張らせると、時を同じくして秀吉も長浜城に入りました。
こうして、近江にて『賤ヶ岳の戦い』が勃発します。
この賤ヶ岳の戦いは、織田信長の三男の織田信孝は勝家軍に、次男の織田信雄は秀吉軍についており、織田家の命運を分ける戦でもありました。
実際戦が始まると、佐久間盛政が柴田勝家の命令を無視したり、前田利家が戦線離脱したりし、柴田軍全体の士気は大いに低下し、残された柴田軍だけでは到底勝ち目はなく、柴田勝家は敗走を余儀なくされたです。
賤ヶ岳の七本槍のメンバーを簡単に解説
賤ヶ岳の七本槍とは、秀吉軍で功名をあげた兵の7人のことです。
【賤ヶ岳の七本槍のメンバー】
- 脇坂安治(わきざか やすはる):1554年(天文23年)~1626年(寛永3年)
賤ヶ岳の戦功により、山城国に3,000石を与えられた。
この戦いの折、柴田勝政を討ち取ったという説がある。 - 片桐且元(かたぎり かつもと):1556年(弘治2年)~1615年(慶長20年)
若くして秀吉に仕官しており、毛利輝元に対する中国攻めにも従軍していたと言われている。
この時、秀吉から戦功を賞されて摂津国内に3千石を与えられた。 - 平野長泰(ひらの ながやす):1559年(永禄2年)~1628年(寛永5年)
父親が秀吉の家人であったため、自身も若くから羽柴秀吉に仕えた。
長泰はこの功績によって河内国で3千石の知行と感状を与えられた。 - 福島正則(ふくしま まさのり):1561年(永禄4年)~1624年(寛永元年)
母は秀吉の叔母にあたる人物で、少年に成長すると、母を通じた縁で秀吉の小姓になる。
賤ヶ岳の戦いにおいて、一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取るという大功を立てて賞され、他の6人は3,000石に対し、5,000石を与えられた。 - 加藤清正(かとう きよまさ):1562年(永禄5年)7月25日~1611年(慶長16年)
豊臣秀吉の子飼いの家臣。
秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。 - 糟屋武則(かすや たけのり):1562年(永禄5年)~不明
福島正則や加藤清正ら(賤ヶ岳の七本槍)と共に一番槍の賞詞が6月5日に渡され、8月1日、播磨国加古郡に2,000石、河内国河内郡に1,000石など合わせて3,000石余を拝領した。 - 加藤嘉明(かとう よしあきら):1563年(永禄6年)~1631年(寛永8年)10月7日
父親が秀吉に仕えており、自身は馬の行商を手伝っていたが、幼少ながら優れた資質があるということで加藤景泰に見出され、秀吉に推挙された。戦功をあげて一気に禄3,000石を与えられ、賤ヶ岳の戦いでは戦功をあげて一気に禄3,000石を与えられた。
柴田勝家の最後の姿
秀吉との賤ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家は、妻のお市の方と共に自害という最期を迎えています。
このとき、最後まで付き添ってきた家臣はもちろん、離反した家臣を責めることはぜず、逆に感謝の気持ちを述べたとされています。
柴田勝家とお市の方の辞世の句
織田信長の筆頭家老であった柴田勝家は、本能寺の変で信長が没すると、同年1582年(天正10年)、60歳の時に織田信長の妹・お市の方の再婚相手に選ばれます。
柴田勝家は翌年に賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉と対立し秀吉の軍勢に包囲され、北ノ庄城に逃れた勝家らはお市の方と共に自害。
その際、柴田勝家とお市の方は、次のような辞世の句を詠んだとされています。
お市の方の辞世の句に対し、柴田勝家が返歌した形となっています。
お市の方・辞世の句
さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の別れ(夢路)を誘ふ 郭公(ほととぎす)かな
現代訳:
そうでなくても眠る間もないほど短い夏の夜にこの世との別れを急かすのかホトトギスよ
柴田勝家・辞世の句
夏の夜の 夢路はかなき 後の名を雲居にあげよ 山郭公(ほととぎす)
現代訳:
夏の夜の夢のように儚い人生だった我が名を後の世に語り伝えてくれ山ホトトギスよ
人が死後に行く冥土にあるという険しい山、死出の山と結び付けられ、ホトトギスは冥土から迎えに来る使いの鳥として、「死」と関連する文脈で用いられることがあると言われています。
柴田勝家とお市の方の子孫はどうなった?
織田信長の筆頭家老として仕えた柴田勝家は、結婚が60歳と非常に遅かったといいます。
柴田勝家の妻となったのは、織田信長の妹・お市の方。お市の方は再婚で、25歳の歳の差がありましたが、夫婦仲は非常に良かったようです。
結婚生活はわずか1年と短く、実子には恵まれませんでした。側室との間に二人の男子がいますが、母親の身分が低かったため、庶子の扱いになっていました。
他にも養子を8人(7男1女)とっています。
柴田勝家と、お市の方が自害した後、柴田勝家の子供たちはどうなったのでしょうか?簡単に見ていきましょう。
- 柴田勝里(生死年不明)
柴田勝家の長男で庶子。
生母不明。柴田勝家の死後、豊臣秀吉により処刑。 - 柴田勝忠(生年不明〜慶長4年1600年)
柴田勝家の次男で庶子。生母不明。柴田勝家の死後、豊臣秀吉により処刑。 - 柴田勝春(生死年不明)
柴田勝家の養子。父母不明。柴田勝家の死後の消息不明。 - 柴田勝政(1557年(弘治3年)~1583年(天正11年)
柴田勝家の養子。勝家の姉の子。柴田勝家の死後、豊臣秀吉により処刑。 - 柴田勝豊( 生年不明~1583年(天正11年)
柴田勝家の養子。勝家の姉の子。賤ヶ岳の戦い前後に病死。 - 柴田勝敏( 1568年(永禄11年)~1583年( 天正11年)
柴田勝家の養子。勝家の妹の子とされる。実子説もあるが、定かではない。
柴田勝家の死後、豊臣秀吉により処刑。 - 佐久間勝之( 1568年(永禄11年)~1634年(寛永11年)
柴田勝家の養子。織田氏の家臣・佐久間盛次の四男。
柴田家から離れ、信濃国長沼藩主 - 女子( 生死年不明
柴田勝家の養子。高城胤則の妻。
【柴田家を継承した人物】
柴田の名を継ぐ子のほとんどが、柴田勝家の死後に秀吉から処刑されています。
しかし、柴田家を継承した人物がいました。それが柴田勝家の養子・柴田勝政の子の柴田勝重です。
- 柴田勝重1579年(天正7年)~1632年(寛永9年)6月12日】
柴田勝家の養子・柴田勝政の子。
賤ヶ岳の戦いに破れた柴田勝家は自害前に、孫にあたる柴田勝重へ「愛用の兜」を与えています。勝重は母方の祖父、日根野高吉のもとに逃れ生き延びます。
豊臣秀吉の死後は、徳川家康に仕え、上野国に2000石を賜り、関ヶ原の戦いで初陣を飾り、続いて大坂夏の陣、冬の陣と功績を挙げます。
これにより武蔵国多摩郡と藤沢村など加領され、ついに合計3500石の領地を与えられています。
その後の子孫が現代に続いているかは詳細は不明です。
柴田勝家と秀吉は仲が悪かった?
共に織田信長の家臣だった柴田勝家と秀吉は、信長の没後に賤ヶ岳の戦いで戦い、最期は柴田勝家の自害という形で幕を下ろしましたが、二人は最初から仲が悪かったのでしょうか?
柴田勝家と秀吉の仲が悪化したのは信長の死後?
柴田勝家は、若い頃から織田信長の父・織田信秀に仕え、やがて信長の家臣になります。
一方、豊臣秀吉も若い頃から織田信長の小者として仕えていました。
両者の関係はもともとは悪くなかったようですが、秀吉が出世をし、目立った活躍をするようになった頃から、少しずつ関係性が変化していったようです。
そして、劇的に関係が悪化したのは、信長の死後と言われています。
織田信長亡きあとの後継者と遺領の配分を決める際に開かれた清須会議で、豊臣秀吉と柴田勝家の意見は大きく対立。
秀吉はこれまでの活躍で功績をあげていたことに加え、主君の仇討ちとして、山崎の戦いにおいて明智光秀を討った功績が称えられ、結果、秀吉側の立場が優位になりました。
そのことから急激に関係が悪化し、賤ヶ岳の戦いで両者は争うことになり、敗れた勝家は妻と共に自害。二人の子も次々と秀吉に処刑されるという最期を迎えています。
柴田勝家の名前をもらった秀吉
もともと柴田勝家と秀吉の関係は、上司と部下、先輩と後輩といった間柄で、がむしゃらに仕事をこなす秀吉を、柴田勝家が陰ながら応援するような間柄だったようです。
秀吉が羽柴姓を名乗ったのも、柴田勝家と丹羽長秀(信長の家臣)の両者から1文字づつ取ったと言われており、当初は、秀吉は柴田勝家を尊敬していたようです。
まとめ:柴田勝家と秀吉は、信長の死後に関係が悪化し、最後は争った
柴田勝家と秀吉の関係は、織田信長に共に仕えていたというだけではなく、名前を賜るほどの良好な関係だったようですが、最終的には争い、柴田勝家の自害で幕を下ろしています。
今回の内容をまとめると、
- 柴田勝家と秀吉は、共に織田信長の家臣として仕えていた
- 羽柴の姓は尊敬する柴田勝家の名から取った
- 柴田勝家と豊臣秀吉は、清洲会議の後から関係が悪化し、最期は賤ヶ岳の戦いで争った
歴史にたらればはありませんが、もし本能寺の変が起きなかったら、柴田勝家と秀吉は良好な関係のまま違った人生を送ったかと思うと、なんだか感傷的になりますね。