織田信長の年表|したことや主な政策、主な戦などを簡単に解説!【完全版まとめ】

織田信長の年表|したことや主な政策、主な戦などを簡単に解説!【完全版まとめ】

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織田信長(1534年(天文3年)〜1582年(天正10年))は、天下布武を掲げ、天下統一目前で本能寺の変によって最後を迎えた戦国武将です。
数多くいる戦国武将の中でも、非常に人気の高い武将です。
歴史の授業などでも、誰でも一度はその名を見かけたことがあるのではないでしょうか?
この記事では、織田信長の年表を通して、したことや主な政策、主な戦などを簡単に解説していきます。
この完全版まとめを読めば、あなたも織田信長についてばっちりと詳しくなれるでしょう!

織田信長の生涯年表を簡単に解説

織田信長の生涯年表を見ながら、その49年の人生を見ていきましょう。

【織田信長の生涯年表】

1534(天文3):1歳 誕生 勝幡城(しょばたじょう)

1546(天文15):13歳 元服し三郎信長と名乗る

1549(天文18):17歳 濃姫と結婚

1552(天文21):19歳 父・信秀の他界により家督を継ぐ

1559(永禄2):25歳 尾張国を統一

1560(永禄3):27歳 桶狭間の戦いで今川義元を討つ

1567(永禄10):34歳 斎藤龍興を討ち稲葉山城へと入場→岐阜と改める

1568(永禄11):35歳 上洛→足利義昭を室町幕府第15代将軍にする

1570(元亀元年):37歳 姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破る

1571(元亀2):38歳 延暦寺焼き討ち

1572(元亀3):39歳 三方ヶ原の戦いで武田信玄に惨敗

1573(元亀4):40歳 足利義昭を京都から追放

1575(天正3):42歳 長篠の戦いで武田勝頼を破る

1576(天正4):43歳 安土城の築城

1582(天正10):49歳 本能寺の変→自害


織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の年表を比較

戦国三英傑と呼ばれる、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康。
戦乱の世で天下統一を目指したこの3人の、主な出来事を比較してみます。

【生まれ】

  • 織田信長:1534年(天文3年)に尾張国にて誕生
  • 豊臣秀吉:1537年(天文6年)に尾張国にて誕生
  • 徳川家康:1542年(天文11年)に三河国にて誕生

実は3人とも現在の愛知県の出身ということになります。

【織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の関わり】

  • 豊臣秀吉:1554年(天文23年)に信長に仕える(17歳)
  • 徳川家康:1547年(天文16年)に織田家の人質になる(6歳)
    →1562年(永禄5年)に信長と同盟を結ぶ(清洲同盟)(20歳)

天下統一に最初に踏み切ったのは、織田信長です。
そのため、後に続く豊臣秀吉と徳川家康の2人は、信長に仕えたり、同盟を結んだりして関係を築いていたのですね。

【天下統一】

  • 織田信長:1582年(天正10年)に天下布武の夢半ばで死去(49歳)
  • 豊臣秀吉:1590年(天正18年)に天下統一(53歳)
  • 徳川家康:1600年(慶長5年)に事実上の天下人に(58歳)

織田信長は惜しくも天下統一が叶いませんでしたが、豊臣秀吉と徳川家康は50歳を過ぎてから天下を統一を成し遂げています。

【織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の最後】

  • 織田信長:1582年(天正10年)に本能寺の変にて自害(49歳)
  • 豊臣秀吉:1598年(慶長3年)に病死(62歳)
  • 徳川家康:1616年(元和2年)に駿府城にて死去(75歳)

戦国時代から江戸時代に移行していくに連れて、戦乱が治まってきたこともあり、徳川家康は他の2人に比べて長生きすることができたのかもしれません。

豊臣秀吉の年表に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております。

徳川家康の年表に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております。

織田信長ってどんな人?

惜しくも天下統一は果たせなかったものの、その名を全国に轟かせ、戦国時代を代表する大名となった織田信長。
織田信長とはいったいどのような人物だったのでしょうか?
ここでは、織田信長について詳しく解説していきます。

織田信長のプロフィール

織田信長(おだのぶなが)

1534年(天文3年)〜1582年(天正10年) 享年:49歳

出身地:尾張国(現在の愛知県)

父:織田信秀  母:土田御前

正室:濃姫

子供:20人

信長は、尾張国にある勝幡城というところで誕生しました。
その後、尾張国を統一を足がかりに全国統一に向けて動いていきます。
しかし、夢半ばにして、1582年(天正10年)に重臣・明智光秀の謀反によって、本能寺で自害に追い込まれてしまいました。(本能寺の変)

織田信長の父「織田信秀」については、こちらの記事で詳しく解説しております。

織田信長の子供たちに関しては、こちらの記事で詳しく解説しております。

織田信長の家族構成はどうだった?

織田信長は、織田信秀とその正室であった土田御前の三男として生まれました。
戦国時代は戦乱の世ですから、たくさん子供を持つことで、家を存続させていました。

信秀も例に漏れず子供がたくさんいて、信長には兄弟がなんと26人も存在しています。(男12名、女14名)
20人超えは当時としてもなかなかの大家族だったそうです。

織田信長の兄弟の中で、特に有名な人物をなら、「お市の方」(浅井長政の妻→のちに柴田勝家の妻)が挙げられるでしょう。

兄弟がとても多かった織田信長は、自分自身も子沢山でした。

正室・濃姫との間には子供を授かることができませんでしたが、側室との間に20人もの子供を授かることができました。(男11名、女9名)

ちなみに、豊臣秀吉の実子は4人、徳川家康の子供は16人だったので、3人の中ではダントツで子沢山です。

【織田信長の子供たち】

・織田信忠:信長から家督と美濃東部と尾張の一部を譲られ、事実上の後継者となる

・織田信雄:伊勢攻略の際に北畠具房に養子に出される

・織田信孝:伊勢北部を支配していた神戸氏の養子

・羽柴秀勝:豊臣秀吉の養子

・津田勝長:一時は、甲斐の武田氏の人質になっていた

・織田信秀:有名なクリスチャン大名

・織田信高:フィギュアスケート選手の織田信成選手の祖先と言われている

・織田信吉:関ヶ原合戦後、改易となり大阪城下で暮らした

・織田信貞:大坂の陣で徳川軍に従事

・織田信好:本能寺の変後、豊臣秀吉に引き取られ家臣になった

・織田長次:関ヶ原合戦で大谷吉継の隊に所属し戦死

・徳姫  :徳川家康の長男・松平信康の妻

・相応院 :蒲生氏郷の正室

・永姫  :前田利家の嫡男・前田利長の正室

・報恩院 :丹羽長秀の嫡男・丹羽長重と縁組が決まっていた

・秀子  :筒井定次の正室

・於振  :水野忠胤の正室

・源光院 :万里小路充房の継室

・三の丸殿:豊臣秀吉の側室

・鶴姫  :中川秀政の正室

・月明院 :公家の徳大実久の正室

・慈眼院 :北条氏直の婚約者だった

織田信長の子供たちに関しては、こちらの記事で詳しく解説しております。

織田信長の家系図に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております。

織田信長は性格はどうだった?

織田信長と言えば、「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」という句に表されているように、残忍で冷酷なイメージを持っている人も多いのではないでしょうか?

実際に、討ち取った敵の首をつまみに酒を飲んだという話であったり、宗教を弾圧するために、女子供がいたにも関わらず火を放ち焼き討ちにしたという話であったり、そのようなイメージを補強するエピソードが多いことも確かです。

しかし、そのような厳しく怖い一面とは反対に、部下や身内には優しく、慕われ尊敬されていたという話もあります。
豊臣秀吉の妻・寧々が秀吉の浮気について相談すれば、仲裁の手紙を送ってあげたり、祭りの時に庶民と踊ったり、安土城も階級問わずに招待して内覧させたり、乞食にまで情けをかけてあげたこともあったそうです。

そして、判断力にとても長けていて、使えるものはなんでも取り入れていきました。
代表的なもので言えば、鉄砲の導入が挙げられるでしょう。
さらに、敵として戦った相手であっても、優秀だと判断すれば家臣として迎え入れていました。
そして、成果を上げればしっかりと報酬を与える、そのようなリーダーとしての資質もしっかりと備えていました。

このように、カリスマを持ち皆から慕われ、時には残忍で冷酷な一面を持ち合わせていた信長でしたが、意外とお茶目な面も存在します。

それは、自分の家臣などにあだ名をつけて呼んでいたのですが、そのネーミングセンスです。
有名なところで言えば、秀吉につけた「サル」が挙げられます。
しかし、秀吉にはもう1つあだ名がありました。それは「はげねずみ」です。

このようなあだ名で呼んでいても、豊臣秀吉が織田信長から離れることがなかったところを見ると、よっぽどの信頼関係が築かれていたことが伺えますね。

秀吉の「はげねずみ」他にも、「金柑頭」「鳥なき島のコウモリ」「おおぬる山」などのあだ名で呼ばれていた家臣もいました。

織田信長の性格に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております。

織田信長のネーミングセンスに関しては、こちらの記事で詳しく解説しております。

織田信長にゆかりのある城

織田信長も様々な城とゆかりがあります。
ここでは、信長にゆかりのある城を時系列でご紹介していきます。

【織田信長にゆかりのある城】

  • 勝幡城しょばたじょう
     住所:愛知県稲沢市平和町城之内105
     織田信長が生まれたと言われている城
  • 那古野城なごやじょう
     住所:愛知県名古屋市中区二の丸1
     織田信長が大うつけと言われた青年期を過ごした城
  • 古渡城ふるわたりじょう
     住所:愛知県名古屋市中区橘2-8
     織田信長が元服をした城
  • 清洲城きよすじょう
     住所:愛知県清須市朝日城屋敷1-1
     今川義元と戦った桶狭間の戦いへ出陣した城
  • 小牧山城こまきやまじょう
     住所:愛知県小牧市堀の内1-1
     織田信長が初めて築城した城
  • 岐阜城ぎふじょう
     住所:岐阜県岐阜市18
     天下布武への足がかりとなった城
  • 安土城あづちじょう
     住所:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
     織田信長の集大成とも言える、天下統一に向けての本拠地となった城

織田信長にゆかりのある城に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております。

織田信長がしたことを簡単に解説(戦い・政策)

織田信長は、天下統一に向けて、様々な戦に参戦し、数々の政策を実行してきました。
ここでは、織田信長のしたことを、主な戦い・政策とわけて簡単に解説していきます。
また、織田信長の優秀な家臣たちについても解説していきます。

織田信長のしたことについては、こちらの記事で詳しく解説しております。

織田信長の主な戦い

織田信長が戦った主な戦は、全部で4つ挙げられます。

・桶狭間の戦い(1560)
父・信秀の時代から続いていた今川義元との決着をつけた戦い。
織田信長の名を全国に轟かせるきっかけにもなりました。

織田信長と今川義元の戦いに関しては、こちらの記事で詳しく解説しております。

・姉川の戦い(1570)
浅井・朝倉連合軍との戦い。この際に、浅井・朝倉両氏が比叡山延暦寺に逃げ込みます。
織田信長は、延暦寺側に「こちらに味方しろ」などの通知を何度もしましたが、延暦寺はこれを無視。
そして、延暦寺は当時の征夷大将軍であった足利義昭に仲裁を頼み、この戦いは和睦に終わります。
しかし、延暦寺、足利義昭と織田信長の仲を割くきっかけとなりました。

比叡山焼き討ち(1571)
姉川の戦いの際の怒りなどから、織田信長は延暦寺を焼き討ちにしてます。
この事件が引き金となり、足利義昭は京から追放されて、結果的に室町幕府が滅亡することになりました。

長篠の戦い(1575)
当時最強とも言われていた武田の騎馬隊と戦った戦。
この戦いは、その後の合戦の戦い方を変える大きなきっかけとなった戦と言われています。
なぜならば、この戦いにおいて信長は鉄砲を採用したからです。
当時の鉄砲は連続で発砲することが不可能だったのですが、隊列制にすることでそのデメリットを解消し、最強の騎馬隊を撃破したのでした。

織田信長と武田の騎馬隊に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております。

織田信長の最後「本能寺の変」

天下統一に手が届きそうだった織田信長ですが、その夢半ばにして亡くなってしまうことになります。
その原因が本能寺の変と呼ばれている明智光秀による謀反です。
このとき、明智軍13000人に対して、織田軍はたったの約100人。明智軍は本能寺を囲み火を放ちます。
織田軍もなんとか応戦しますが、最終的に信長は殿中奥深くに入り、中から鍵をかけて自害しました。
この際、織田信長は光秀による謀反だと知り、「是非に及ばず」と言い放ったと言われています。

本能寺の変に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております。

織田信長の家臣たちは優秀だった

織田信長は、優秀だとわかれば、元々敵であったとしても積極的に家臣にしていきました。

そのため、織田信長の家臣には優秀な人材が揃っていました。
ここでは、その代表的な家臣をご紹介していきます。

佐久間信盛(1528?〜1582)
織田信長の父・信秀の時代から織田家に仕えていた家臣の一人。
幼い頃の織田信長に重臣として仕え、その後もずっと一貫して信長に仕えました。
しかし、信長から19ヶ条の折檻状を突きつけられ追放されてしまいました。

柴田勝家(1522?〜1583)
佐久間信盛同様、信秀の代から織田家に仕えていた家臣の一人です。
織田信長の妹であるお市の方を妻としていました。

丹羽長秀(1535〜1585)
元々は斯波氏の家臣でしたが、1560年から織田信長に仕えることになります。
政治面では安土城の総奉行を務めるなど非常に優秀な人物であったと言われています。
本能寺の変の後、豊臣秀吉とともに明智光秀を討ち取りました。

村井貞勝(生誕不明〜1582)
織田信長の側近として活躍した家臣。
1556年頃にはすでに織田信長に仕えており、稲生の戦いの後に柴田勝家らとの和平交渉を行ったこともありました。また、織田信長が足利義昭を追放し京都を支配下に置くと、村井貞勝を京都所司代に任命し、京都に関する行政の全てを任せました。

明智光秀(生誕不明〜1582)

13代将軍足利義昭を織田信長に紹介したことがきっかけで、信長に仕えることになりました。
織田信長から絶大な信頼を得ていましたが、本能寺の変で謀反を起こし信長を討ちました。
その後、山崎の戦いにて秀吉に敗れることになります。

細川藤孝(1534〜1582)

元々13代将軍足利義輝に仕えていましたが、義昭の上洛をきっかけに織田信長に仕えるようになります。
細川藤孝は本能寺の変の際、明智光秀に誘われていましたが断ったと言われています。

・豊臣秀吉(1537〜1598)
百姓の身分から信長に仕え、どんどんと頭角を表し、最終的には天下統一を成し遂げた人物です。
織田信長の家臣の中では、最も出世した人物と言えるでしょう。

前田利家(1538?〜1599)
若い頃から織田信長に仕えていた、加賀百万石の祖と言われていた人物です。
数々の戦で功績を上げ、信長からも非常に寵愛されていました。
織田信長の没後、豊臣秀吉に臣従し豊臣五大老の一人になりました。

滝川一益(1525〜1586)
滝川一益は、柴田勝家・丹羽長秀・明智光秀と並び、織田四天王と呼ばれていました。
戦に強く、その戦闘態勢は非常に巧みで「進むも退くも滝川」と評されていたことも。
また、鉄砲の扱いが非常に上手く、長篠の戦いでは鉄砲隊の指揮官として信長の勝利を後押ししました。

織田信長の家臣団については、こちらの記事で詳しく解説しております。

織田信長の主な政策

織田信長の主な政策は全部で6つ挙げられます。
織田信長は商業に重きをおいていたため、商業を発展させるための政策が目立ちます。

・楽市楽座
当時は「座」と言われる商人の組合のようなものがあり、それが商売を独占していました。そのため、新しく商売を始めることが難しかったのです。そこで信長はその座を廃止し、誰でも市場で商売できるようにしました。また、市場税といった税金も廃止し、経済をさらに活性化させました。

・関所の撤廃
当時はいたるところに関所が設置されていました。この関所では、通行税が取られていたため、その通行税が上乗せされて物の値段が上昇してしまいました。そこで信長は関所を撤廃。これにより、人の往来がスムーズになり、物価も下がり、物流の速度も上がりました。

・主要道路の整備
信長は主要道路の整備も行いました。道路幅を約6mと定め、道の両側には松や柳を植えさせたと言われています。これにより、馬車が通りやすくなり、人々の旅の苦労が減り、物流や人の交流をより活性化させました。

・撰銭令
当時は貨幣が統一されていなかったので、価値のある貨幣のみを選りすぐって使うようにと撰銭令を出しました。しかし、これはかえって市場の混乱を招いてしまい、米を使った物々交換を助長することになってしまいました。

・鉄砲の使用
ポルトガルから伝来した鉄砲を積極的に使用しました。そして、これにより信長は新しい合戦の形を生み出したのです。

・キリスト教の布教を許可
鉄砲を積極的に使用したことからもわかるように、信長は進んで革新的で新しいものを取り入れていっていました。その流れで、キリスト教の布教を許可し、積極的に保護していきました。そのおかげか、宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』には信長に関する様々な記録が残されています。

織田信長のしたことについては、こちらの記事で詳しく解説しております。

織田信長のまとめ

後少しで天下統一に手が届きそうだった織田信長。
その人柄は、「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」という句で表されているように、冷酷で残忍な面もありますが、家臣や身内には優しかったという一面も持ち合わせていたようです。
そのようなところに、色々な人が惹かれたのでしょう。

今回の内容をまとめると、

  • 織田信長は尾張国の勝幡城で生まれた
  • 後に天下を取ることになる豊臣秀吉、徳川家康も織田信長に仕えたり、同盟を結んだりしていた
  • 判断力に長けていて、優秀だとわかれば敵であろうとも家臣として迎え入れた
  • 主に商業に力をいれていて、商業が発展するような政策をとっていた
  • 鉄砲といった新しいものでも使えるものであれば、積極的に取り入れていた
  • 最期は本能寺の変で明智光秀に自害に追い込まれた

織田信長の家臣は、誰が天下をとってもおかしくないような人物ばかりでした。
しかし、その家臣たちをまとめあげていたわけですから、信長のカリスマ性というものはよほどのものであったのでしょう。もし明智光秀に討ち取られていなければ、天下をとれていたかもしれないと考えると残念でなりません。

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