アフィリエイト広告を利用しています

野口英世がお札に選ばれた理由は?いつから?千円札になった理由を簡単に解説!

野口英世(1876(明治9)〜1928(昭和3))は、日本の医師で細菌学者です。

主に細菌学に従事し、黄熱病や梅毒の研究で世界的に有名になりました。

現代の千円札の肖像にもなっており、顔を見たことがあるという人も多いでしょう。

何故、野口英世はお札の肖像に選ばれたのでしょうか?

この記事では、野口英世がお札になった理由を簡単に解説していきます。

野口英世がお札に選ばれた理由は?

野口英世は現代の千円札の肖像として有名ですが、何故英世はお札に選ばれたのでしょうか?

ここでは、野口英世がお札に選ばれた理由を簡単に解説していきます。

野口英世はお札に選ばれた理由は主に3つ?

お札に選ばれる条件は3つあります。

  • 特徴的な顔立ちであること
  • 知名度があること
  • 世界に誇れる功績があること

これらの条件を満たしている人物の中から選ばれるということですね。

特徴的な顔立ちであることが条件に入っているのは、お札偽造防止の観点からです。
野口英世は、丁寧に七三分けされた天然パーマ風の特徴的なヘアスタイルをしていました。
また、口髭も英世の特徴と言えるでしょう。

この点から特徴的な顔立ちの条件は満たしていることがわかります。

世界に誇れる功績は、言わずもがな、梅毒や黄熱病研究の功績があります。
このような世界的な知名度もあり、さらに国内で言えば学校の教科書や、小説、映画などにも登場し、知名度も十分にあります。

また、この新しいお札の選考の際には、当時の財務省が

「今まで日本銀行券の肖像として選択したことのなかった科学者を採用すること」

と決めていたそうです。

以上の理由から野口英世は千円札の肖像として選ばれたのです。

野口英世のお札はいつから使用されている?

野口英世のお札は、2004年(平成16年)11月1日から使用されています。

お札に使用されている肖像画は、福島県猪苗代町にある野口英世記念館所蔵の写真を素材としています。ちなみに、野口英世のお札の裏面には、世界遺産に登録された富士山と日本を象徴する花である桜が描かれています。

また、お札には「記番号」と呼ばれるシリアルナンバーが一枚一枚に印字されており、そのアルファベットと数字の組み合わせは、なんと約130億通り存在しているそうです。
野口英世のお札はこの約130億通りを約15年間で2度使い切り、そのたびに印刷色が変更されています。

黒色 2004年(平成16年)11月1日発行分から

褐色 2011年(平成23年)7月19日発行分から

紺色 2019年(平成31年)3月18日発行分から

野口英世以外のお札に選ばれた人物は?

野口英世の前に千円札に採用されていたのは、小説家として有名な夏目漱石でした。

さらに、野口英世の後に千円札になる人も既に決まっています。
それは、英世の恩師の細菌学者である北里柴三郎です。

英世はこの北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所にに勤めていたのです。
英世とゆかりのある人物が、英世の後に千円札になることに縁を感じるという人も多いのではないでしょうか。
この北里柴三郎のお札は、2024年度の上半期を目処に変えることが政府から発表されています。

ちなみに現在使用されている他のお札には、

一万円券:福沢諭吉

五千円券:樋口一葉

二千円券:(肖像の採用はなし)

以上の人物が描かれています。

ちなみに、日本銀行券の肖像に女性が採用されたのは、樋口一葉が初めてでした。

野口英世がお札になった影響は?

野口英世は、その特徴的な見た目と知名度と功績により、お札に選ばれました。
それでは、野口英世がお札になったことの影響はあったのでしょうか?

ここでは、野口英世がお札になった際の影響について簡単に解説していきます。

野口英世のために記念式典が行われた?

野口英世の肖像画の使用が決定したのは、発行される2年前の2002年8月でした。

そのとき、野口英世記念館長の八子弥寿男(やごやすお)さんは、発表当日インフルエンザにかかっていました。しかし、そんな中でも報道各社から取材を受け、高熱に負けずに何度も喜びを口にしたそうです。

地元・猪苗代町では、発行日当日に町民が「お帰りなさい野口英世博士」と帰郷を祝うアーチを掲げました。それは、さながら大正期に英世の凱旋帰国を迎えた祝福ムードの再現のようになったそうです。記念式典も行われ、町役場前から町総合体育館までの約2kmで提灯行列が繰り広げられました。

また、記念式典会場には大勢の町民らが詰めかけ、最後に全員で万歳三唱して終わりを迎えました。

また、野口英世記念館は発行の影響で、年間来館者の数が十数万人増加。

さらに英世に関する講演会や出張展示を全国各地で行うなどもしており、記念館職員は目を回すほど忙しくなったそうです。

このように、野口英世のお札採用は、多く人が英世に興味を持つきっかけとなり、様々なところに影響を与えたのです。

野口英世の初めて印刷されたお札は野口英世記念館にある?

先程もお伝えしたように、お札には「記番号」と呼ばれるシリアルナンバーが一枚一枚に印字されており、いつ発行したものかということがわかるようになっています。

中でも最初のアルファベットが「A」で、なおかつ数字が一桁のものは貴重とされています。

新しいお札が発行された際には、「A000001A」番のものは日本銀行が設立した貨幣博物館に納め、その後の2番以降の若い番号のものは、肖像の人物のゆかりの団体や、人物以外に描かれた意匠と関わり深い団体に配布されることが通例となっています。
野口英世の場合も例に漏れず、1番のものは貨幣博物館に納められ、2番は福島県にある野口英世記念館に配布されました。

また、この野口英世記念館では、野口英世の宝物展という特別展が行われたことがあり、その際には、3番(福島県所蔵)と5番(猪苗代町所蔵)が一堂に会したこともあったようです。

野口英世のお金にまつわるエピソード

お札に選ばれるほどの功績を残していた野口英世でしたが、実はものすごくお金の扱いがひどかったのです。どのような使い方をしていたのでしょうか?
ここでは、英世のお金に関するエピソードを簡単に解説していきます。

野口英世の家は貧乏だった?

野口英世の家は、父親が大酒飲みであったため、母親・シカが働くしかなく、非常に貧しい家庭環境でした。そんな中、まだ赤子だった英世は不注意から囲炉裏に落ち、手にやけどを負うことになってしまいます。

やけどを負わせてしまった後悔から、シカは英世をなんとか学問の道へと進ませるために小学校へと入学させました。シカはここから、英世に一切の家事を手伝わせることなく、自分が人一倍働き、英世が勉強に集中できる環境を作ってくれるのです。

しかし、小学校といえども、当時の福島の片田舎の小学校は、裕福な家庭の子供しかまだ通うことができず、貧しい家庭の子供は野口英世しかいませんでした。

新しい教科書すら買えない、手にはひどいやけどという英世は、周りの子どもたちからからかわれ続けることになりました。一時は不登校になってしまう英世でしたが、シカの真摯な思いを受け止め、そこから勉学によりいっそう励みます。

また、当時は尋常小学校での4年間が一般的に受ける教育であり、その上の高等小学校には経済的に余裕のある子供しか進学できませんでした。
貧しい英世の家では、本来であれば当然進学できるような状況ではありません。

しかし、英世の猛烈な勉強っぷりに感心した、猪苗代高等小学校の先生である小林栄先生が資金援助してくれたのです。こうして、シカの深い愛もあり、英世は貧乏ながらも無事に高等小学校まで通うことができたのでした。

野口英世は支援者からの支援金を遊びで使ってしまった?

野口英世の家は貧乏で、英世は勉強のためのお金を自分で用意することが難しい環境にありました。

しかし、学生時代には母親と恩師が援助をしてくれ、上京後や渡米後にも野口英世のことを支援してくれていた人物がいました。
つまり、野口英世の才能を見込んで、支援をしてくれていた人物たちがたくさんいるのです。

上京後に野口英世の支援をしてくれていたのは、血脇守之助という歯科医師でした。

この血脇は、
「東京に来たら、ウチに立ち寄りなさい」
というおあいそを言ってしまったがゆえに英世に家に転がり込まれ、金を引き出し続けられ、学費はおろか遊興費まで文句を言わず払い続けたそうです。

それもこれも、野口英世の才能に惚れ込んでいたからという理由です。

しかし、英世には悪い癖がありました。

それは、勉強などでストレスがたまると、浪費、放蕩、飲酒などで解消するという癖です。
血脇からの支援金もそのような目的でだいぶ消費していたのでしょう。

1番ひどかったのは、野口英世が渡米を考え始めたときのことです。

渡米費用は血脇守之助からの援助だけでは足りないと考えた英世は、箱根の温泉地にて知り合った斉藤文雄という富豪男性から、支援金を受け取ることに成功します。

しかし、英世はなんとこの譲り受けたお金を、自身の送別会と称して、横浜の一流料亭で使い切ってしまうのです。

そこで現れたのが血脇です。

血脇は事情を聞いて、奥さんの着物を質に入れるなどまでして英世の渡米費用を作り出したのです。

このおかげで、英世はなんとか渡米することができました。

また、野口英世は斎藤斉藤から支援金を譲り受けた際、
「帰国した後にあなたの姪と結婚する」
という約束もしていました。

しかし、英世はアメリカで結婚してしまい、斉藤の姪との婚約を破棄してしまうのです。

当然、斉藤は怒り狂います。

ここで現れるのが、また血脇です。

血脇は、英世が借りた分のお金を斉藤に英世の代わりに返したのです。

いくら才能に惚れ込んでいたと言っても、普通はここまで尽くすことはできないでしょう。

しかし、英世が成功すると信じ、支援してくれた血脇がいたからこそ、英世は世界的に有名になれたといっても過言ではありませんね。

まとめ:野口英世はその見た目と知名度と功績からお札に選ばれた

お札の肖像に選ぶポイントとしては、「特徴的な顔立ち」「知名度」「世界に誇れる功績」が挙げられます。その全てに当てはまったため、野口英世はお札に選ばれました。

今回の内容をまとめると、

  • 野口英世は梅毒や黄熱病などの研究によって世界的に有名になった
  • その功績や、見た目、さらに知名度などからお札の肖像に選ばれた
  • お札に選ばれた際には、地元で記念式典が行われた
  • 初めて印刷されたお札は野口英世記念館に保存されている
  • お札の肖像になった野口英世本人は、お金の扱い方がひどかった

野口英世ほどの人物が、自分のことを思って支援してくれている人の気持ちを省みず、お金を使い切ってしまうのは信じられませんが、そんなことをされてもなお、支援をし続けてくれた人物がいたからこそ、英世はあそこまでの功績を残すことに成功したのかもしれません。自分の才能を信じてくれる人の存在は大事なのだなと感じました。

スポンサーリンク

最初のコメントをしよう

必須

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください