大久保利通の名言集|座右の銘は?人物像が見える逸話を交えて簡単に解説!
大久保利通は幕末から明治時代にかけて活躍した政治家です。木戸孝允、西郷隆盛とともに「維新の三傑」の一人にも称される人物です。
現代日本の基礎を作ったとも言われている大久保利通が残した名言は、生真面目で揺るがぬ意志の強さを持っていたという大久保利通の人柄を表すものが多く存在しています。
今回は、大久保利通の名言や座右の銘を、人物像が見える逸話を交えて解説していきます。
目次
大久保利通の名言1|座右の銘:為政清明
【大久保利通の座右の銘】
「為政清明(いせいせいめい)」
通訳:
「政治をするものは、心も態度も清く明るくなければいけません」
この言葉は、当時国の政治に参画する者の信条を表現したものです。大久保利通の座右の銘のひとつといわれています。
大久保利通は、強い信念のもと明治維新を行いました。版籍奉還や廃藩置県、廃刀令などの改革も強力に推し進めます。現代日本の基礎となる法の整備も次々と行いました。
そのためは、大久保利通は借金をして私財を投入して公共事業を行ったり、同郷の友人や戦友らとの義理も人情も切り捨てた大久保利通です。
「為政清明」という名言は、まさに国家のために自分の全てを尽くした大久保利通の生き様を感じられるものといえるのではないでしょうか。
現在でも、大久保利通の直筆の「為政清明」の書を、鹿児島市立美術館にて見ることができます。力強い筆の調子からも、端正で気品のある大久保利通の人となりが伝わってきます。
大久保利通の名言2|座右の銘:堅忍不抜
【大久保利通の座右の銘】
「堅忍不抜(けんにんふばつ)」
通釈:
「どんなことがあっても耐え忍び、心を動かさない覚悟のこと」
この言葉も、大久保利通の座右の銘の一つであったように、大久保利通の人となりを感じることができる名言です。
日本の郵便制度の創設者で「郵便の父」ともよばれる前島密は大久保利通についてこのように語っています。
「よく人にも計り、人の言も容れた人で、一事を裁断するにも念には念を入れる流儀だったが、ただ裁決した以上は、もう何事が起こっても気が迷うの、躊躇するのということはなかった」
大久保利通は、まさに、堅忍不抜の覚悟をもった人物であったことがわかりますね。
大久保利通の名言3|目的を達成するためには、
【大久保利通の名言】
「目的を達成する為には人間対人間のうじうじした関係に沈み込んでいたら物事は進まない。そう言うものを振り切って、前に進む。」
この名言から大久保利通の人物像を感じられるエピソードのひとつが、島津斉彬が亡くなった後の誠忠組の話です。
幕末、大久保利通は西郷隆盛らと「誠忠組」を結成します。誠忠組は、同じ思想を持つ薩摩藩の若き志士たちの政治グループとイメージしてもらえればと思います。
島津斉彬が亡くなった後、誠忠組は薩摩藩を脱藩し幕府の政治の改革に突出しようということになりました。
その時、大久保利通は思い切った行動にでます。
薩摩藩の実質最高権力者である島津久光にこの計画を漏らし、直筆の手紙を書いて藩に留まるように促させたのです。
こうして脱藩計画は中止となり、誠忠組のメンバーからも優秀な人材を藩の重役に取り立てる流れも生まれました。この大久保利通の行動が無ければ、薩長同盟は成立せず、維新も行われなかったかもしれません。
しかし同時に、脱藩計画の中止が「池田屋騒動」とよばれる薩摩藩の壮絶な同士討ち事件の発端となったともいえるわけです。
大久保利通は、明治維新前から目的を達成するためには、人間関係に沈むことなく振り切って前に進む精神の持ち主だったことが感じられますね。
大久保利通の名言4|今日のままにして瓦解せんよりは、
【大久保利通の名言】
「今日のままにして瓦解せんよりは、むしろ大英断に出て、瓦解いたしたらんにしかず」
通釈:
「何もしないまま今の状況が続けば、瓦が崩れるように、状況は悪くなる一方です。思い切りよく優れた決断をして、その結果、瓦解してしまうならばその方がよいでしょう。」
この大久保利通の名言は、1871年(明治4年)の大久保利通の日記に書かれていた文章です。
日記にはこのような内容が書かれていました。
『木戸孝允や西郷隆盛と廃藩置県についての話し合いをしたが、細かいところで意見が合わない点もいくつかありました。しかしながら、これ以上話し合いを続けても機会を逃すだけだろう。
‘今日のままにして瓦解せんよりは、むしろ大英断に出て、瓦解いたしたらんにしかず。‘
だから細かいことは気にせず、実施に同意した。』
廃藩置県を成し遂げることができた大久保利通の、高い決断力を感じられる名言ですね。
大久保利通の名言5|おはんの死と共に、新か日本が生まれる
【大久保利通の名言】
「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が。」
通釈:
「西郷隆盛の死(西南戦争の終結)が、新しく強い日本につながる」
西南戦争の盟主とされた西郷隆盛が、自刃で亡くなった事を知った大久保利通が言った言葉と言われています。
大久保利通は、京都の家で西郷隆盛が亡くなった死亡の報せを聞くと、号泣し時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回りながらこの言葉をつぶやいたと言われています。
西南戦争を制圧する幕府側のトップとして、西郷隆盛と対立関係にあった大久保利通でしたが、西郷隆盛への親愛の情をなくすことはありませんでした。
西南戦争終了後には「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言い、西郷の伝記の執筆に携わりもしました。
また、西郷隆盛が亡くなった翌年に、大久保利通が暗殺された際に、大久保利通の胸のポケットには生前の西郷隆盛から送られた手紙を持っていたとされています。
同じ薩摩藩の出身で、幼い頃から互いを知っていた大久保利通と西郷隆盛は、最後は西南戦争で対立してしまいましたが、大久保利通は日本をより強くするために信念を貫いただけで、決して西郷隆盛と対立するつもりはなかったのかもしれませんね。
大久保利通と西郷隆盛の関係については、こちらの記事でも詳しく解説しております。
>>大久保利通と西郷隆盛の関係は?仲は悪かった?なぜ二人は対立したのか?>>
大久保利通の名言6|彼は彼、我は我でいこうよ
【大久保利通の名言】
「彼は彼、我は我でいこうよ」
通釈:
「彼(長州藩)は彼、我(薩摩藩)は我で、独自の路線で歩むことが大切です。」
大久保利通が、薩摩藩藩士の伊地知貞馨に宛てた手紙の中に書かれていた名言です。
騎兵隊を組織して藩政改革を行い始めた長州藩に対して、幕府側は第二次長州征伐に動き出そうとします。
当時、薩長同盟で長州藩と同盟関係にあった薩摩藩でしたが、大久保利通はむやみに同調することなく、薩摩藩としてしっかりと考え、行動していくことが大切であることを伝える内容の手紙を同士に送ったのでした。
大久保利通の名言7|この難を逃げ候こと本懐にあらず
【大久保利通の名言】
「この難を逃げ候(そうろう)こと本懐(ほんかい)にあらず」
通釈:
「困難な出来事から逃げることは、本望ではではありません。」
この名言は、大久保利通が何があっても自分の信念を貫いた人物だったことを現しています。
この言葉が転じて、「困難な目の前のできごとからも絶対に逃げてはいけない。」との意味として扱われています。
いかなる困難があっても、自分の信念を貫くために行動し続けることを教えてくれる名言ですね。
大久保利通の名言8|国家創業の折には、難事は常に起こるものである。
【大久保利通の名言】
「国家創業の折には、難事は常に起こるものである。そこに自分一人でも国家を維持するほどの器がなければ、つらさや苦しみを耐え忍んで、志を成すことなど、できはしない。」
この大久保利通の名言からは、大久保利通の信念の強さと、謙虚な性質を感じることができるのではないでしょうか。
日本初の内閣総理大臣として知られる伊藤博文は晩年、大久保利通について以下のような内容を語っています。
「大久保さんは、他の方の話をする際に尊称をつけるのを欠かさなかった。これは、表面上ばかりでなく、実際に心中に敬意を表せられ、推称しておられたように思われる。
それに、誰の系統とか、何藩人とかの区別を設けず、何人に対しても推すべきは心中からこれを推し、用いるべきは心中から敬して用いておられた。
それゆえ大久保さんにはみんな心から服し、喜んで力を致したのである。」
大久保利通は、独裁者といったイメージを持たれることも多い人物ですが、非常に謙虚で自分の信念をしっかり持って行動していた人物だと伺えますね。
まとめ:大久保利通の名言からは、辛くてもやり抜くという強い意志を持った人物像が見えてくる
大久保利通の名言からは、大久保利通の人物像を感じることができました。
寡黙で他人に威圧的、冷静かつ現実主義であり、他人の意見を聞き入れることがほとんど無い独裁者ともいわれる大久保利通ですが、残した名言からは、辛くても困難でもやり抜くという強い意志と奢らない謙虚さを持った人物であったことが見えてきます。
今回の内容をまとめると、
- 大久保利通は多くの名言を残している
- 大久保利通の名言からは、どんなに辛くてもやり抜くという強い意志を持った人物像が見えてくる
- 大久保利通は、自分の信念をしっかり持ち、何があってもやり抜く行動力を持っていた
人間関係に翻弄されず信念を貫こうとする大久保利通の名言からは、逆に情の厚さとそれゆえの葛藤を垣間見ることができるのではと感じました。
名言を知ることで、人間味溢れる大久保利通の人物像を感じる事ができますね。