西南戦争の原因を簡単に解説!なぜ?いつ起こったのか?その後の影響は?
西南戦争(1877(明治10))は、明治初期に起こった士族による武力反乱です。
この反乱は、明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のものであり、日本国内最後の内戦でもあります。
そのような規模の大きい反乱がなぜ起こってしまったのでしょうか?
この記事では、西南戦争がいつ起こったのか、その原因、その後の影響などを簡単に解説していきます。
目次
西南戦争の原因は何?
国内でも最大規模の反乱となってしまった西南戦争ですが、そもそもなぜこのような反乱が起きてしまったのでしょうか?
【西南戦争の原因】
- 士族たちの不満(経済基盤の消失、苗字と帯刀の特権の消失)
- 政府の火薬庫強奪事件
- 西郷隆盛暗殺計画
ここでは、西南戦争の原因について簡単に解説していきます。
西南戦争の根本的な原因は士族の不満から?
西南戦争の根本的な原因は士族(江戸時代の武士階級にあたる人々)の明治政府への不満からでした。士族の主な不満は2つありました。
・経済基盤の消失
当初、明治政府は人口わずか5%の士族に対して、国家予算の約4割にあたる給与を与えていました。
しかし、それが政府の経済を苦しめていたのです。
そこで、政府はその状況を打破すべく、秩禄処分や金禄公債条例発布などを行い、士族への給与を大幅カットすることに決めました。
政府はそれで困窮から救われるかもしれませんが、そうなると困るのは士族たちです。
士族たちは商売のノウハウなど持っているはずもありませんから、自分たちで商売をして生計をたてていくことは困難です。こうして、士族たちは徐々に困窮していき、政府への不満が溜まっていきました。
・苗字と帯刀の特権の消失
士族の前身である江戸時代の武士は、領主階級であることを示す苗字を名乗る権利と、武門の証である武具などを腰に帯びる帯刀権というものを認められていました。
しかし、明治政府に変わってからは、この苗字と帯刀の特権が士族から奪われてしまうのです。
さらに、苗字は誰でも名乗ることができるようになり、徴兵制のおかげで農民であろうとも軍人になることが可能になってしまいました。
このことにより、士族は士族としての存在価値が一気になくなってしまったわけです。武士の出身というプライドを引き裂かれ、士族たちの精神的ダメージは相当なものだったでしょう。
以上、主に2つの不満が積もりに積もり、士族は明治政府に敵対するようになっていきます。
この不満が爆発してしまった結果が西南戦争であったと言っても過言ではないでしょう。
西郷隆盛は政府との戦争に消極的だった?
西南戦争の火付け役、または指導者として名前が挙げられるのが西郷隆盛です。
しかし、実は西郷隆盛自身は政府との戦争に消極的でした。
西郷隆盛は、元々明治政府の中核となる人物でした。
しかし、「征韓論」を巡って大久保利通らと対立し、政府から退き、鹿児島へと帰ってしまったのでした。
西郷隆盛はこの時、すでにかなりの功績を残しており、相当な有名人だったため、熱烈な支持者も多く、帰郷した西郷隆盛の元には明治政府への不満を抱く人々が多く集まってきました。
この頃、九州各地で政府に対する暴動が起こっており、西郷隆盛の元に集まってきた士族たちも相当気が立っている状態でした。
西郷隆盛はその様子を見て、このまま彼らを放置するとここでも暴動が起こってしまうに違いないと考えるようになります。
しかし、仮にもし政府と戦っても勝てないということもわかっていたのでしょう。
未来ある若者たちをこのようなところで終わらせたくないという思いもあり、西郷隆盛は漢文や文学を学ぶ私学校を設立することに決めます。
私学校で教育することにより、若者たちの意識の統率、そして暴動を抑えることに尽力しました。
西郷隆盛の願いは
「行き場のなくなった士族たちに、新政府内で役割を与えてほしい」
の唯一つです。
しかし、その西郷隆盛の努力も虚しく、士族たちの不満は募っていき、西南戦争へと突入していってしまうのです。
西南戦争の中心人物
西南戦争の中心人物たちを簡単に紹介していきます。
【明治政府軍】
総大将:有栖川宮熾仁親王
副司令官:山県有朋および川村純義
- 山田顕義
- 川路利良
- 大山巌
- 谷干城
- 樺山資紀
- 児玉源太郎
- 乃木希典
総大将の有栖川宮熾仁親王は、戊辰戦争でも新政府軍の総大将を務めた人物です。
西郷隆盛を参謀にして、江戸へ進軍したこともありました。
ちなみに、乃木希典は西南戦争中、敵に旗を奪われたことを理由に、明治天皇崩御の直後に自決しています。
【薩摩軍】
総大将:西郷隆盛
- 篠原国幹
- 村田新八
- 永山弥一郎
- 桐野利秋(中村半次郎)
- 池上四郎
- 別府晋介
- 桂久武
薩摩軍側で出撃した人物たちの中で、生きて帰ってきたのは数名のみでした。
ほぼ全員が戦死し、薩摩武士らしく誇り高い見事な最期を迎えています。
西南戦争の流れを簡単に解説!
士族たちの不満が爆発した結果、西南戦争は起きてしまったのでした。それでは、西南戦争はどのような経緯を辿っていったのでしょうか?ここでは西南戦争の流れを簡単に解説していきます。
【西南戦争の流れ】
- 熊本城攻撃
- 植木の遭遇戦
- 木葉の戦い
- 高瀬の戦い
- 田原坂の戦い
- 植木、木留の戦い
- 小川の戦い
- 松橋の戦い
- 御船の戦い
- 城東会戦
- 人吉攻防戦
- 大口方面の戦い
- 城山、重富、紫原の戦い
- 都城方面の戦い
- 豊後、美々津、延岡方面の戦い
- 城山籠城戦
西南戦争はいつ起こった?
西南戦争は、1877年(明治10年)2月15日の記録的な大雪が降る中始まりました。
西郷隆盛率いる薩摩軍が鹿児島を出発するのです。
この後、19日に明治政府も正式に出兵を決定し、薩摩軍3万と官軍7万が激突することになりました。
西南戦争開戦の決定打は西郷暗殺計画だった?
西郷隆盛は当初、政府と戦うことに対して消極的でした。
私学校をつくり、政府に不満を持っていた若者たちを統率しようとしていました。
しかし、そんな西郷隆盛の思いも虚しく、西南戦争は勃発してしまいます。
その決定打となったのが西郷暗殺計画でした。
西郷隆盛が作った私学校を明治政府は脅威に感じていました。
そのため、明治政府のトップである大久保利通は薩摩藩へスパイを送り込みます。
しかし、このスパイは簡単に私学校の生徒たちに見つかり、捕まってしまいます。
拷問の結果、スパイは潜入した目的を自白します。
このとき、
「サイゴウヲ シサツ シニキタ」
とスパイは言ったらしいのですが、ここで聞き間違いが起きてしまいます。
スパイとしては、「視察しにきた」と言っていたつもりだったのですが、私学校の生徒たちは「刺殺しにきた」と勘違いし、西郷隆盛を暗殺しに来たと激怒してしまうのです。
この暗殺計画の少し前には、薩摩藩がお金を出して武器弾薬を溜め込んでいた火薬庫から、明治政府が勝手に大阪へと移し出そうとする事件がありました。
これに怒った私学校の生徒たちは、政府の火薬庫を襲撃し、弾薬を強奪したのです。
この2つの事件をきっかけに私学校の生徒たちの怒りはピークに達し、西南戦争へと突き進むことになってしまうのです。
ちなみに、この2つの事件を聞いた時、
西郷隆盛は「ちょしもたー(しまった)」
と叫んだと言われています。
西郷隆盛自身も、こうなってしまっては西南戦争を止めることはできないと悟ったのでしょう。
西郷隆盛が望んだ、反乱を起こさせないという目標は、残念ながら叶わなくなってしまったのです。
西南戦争で最も激しい戦いになった田原坂の戦い
西南戦争は場所を変えながら様々な場所で戦うことになるのですが、その中でも最も激戦となったのが田原坂の戦いです。
この田原坂という場所は、官軍にとって食糧や兵器などの物資を熊本城に運ぶために非常に重要な通路でした。
当然、薩摩軍にとっても兵糧攻めをするためには死守しなくてはならない場所です。
3月4日から20日までの17日間、激しい死闘が繰り広げられました。
最初は最新型の銃を装備する官軍に対して、薩摩軍は旧式の銃で対抗していました。
その後、連日の雨により、銃が使えなくなり、お互いに刀を抜いて交戦。
得意の白兵戦で一時は薩摩軍が官軍を圧倒します。
しかし、ここで官軍は会津藩中心に構成された警察部隊である「抜刀隊」という組織を結成し、戦場へと送り込みます。
会津藩は幕末において薩長連合軍に滅ぼされた経緯があるため、その強烈な恨みが力となったのでしょうか、見事薩摩軍を打ち破ることに成功します。
この田原坂の戦いの勝敗がその後の西南戦争の流れを決定づけます。
ここから薩摩軍は兵力を徐々に削られながら、官軍に追い詰められていくのです。
ちなみに、トム・クルーズ主演の映画「ラストサムライ」のラストシーンの突撃は、この田原坂の戦いをモデルにしたと言われています。
田原坂の戦い
住所:熊本県熊本市北区植木町豊岡1435
西南戦争最後の舞台は城山籠城戦
田原坂の戦いの後、薩摩軍の敗走は続き、最後は西郷隆盛の故郷である鹿児島へと帰ってきます。
始めは住人の協力もあり、鹿児島市街の制圧を進めていた薩摩軍でしたが、すぐに官軍に包囲されてしまいます。そして、最終的に城山の洞窟で籠城することになります。
このとき、薩摩軍は300人程度に対して、官軍は7万人もの兵力差がありました。
官軍の銃弾によって負傷した西郷隆盛は、別府晋介を顧みて
「晋どん、晋どん、もうここでよか」
と告げ、自害を決断します。
別府晋介が西郷隆盛を介錯し、その後、別府晋介自身もその場で切腹しました。
そこから、薩摩軍は主導者が次々に戦死していき、7ヶ月に及んだ西南戦争はここに幕を閉じたのでした。
西南戦争の戦死者は、薩摩軍6800人、官軍6400人。
圧倒的な戦力差があったにも関わらずこの戦死者数は、両軍が互角の戦いをしていたということの証でしょう。
\ 西郷隆盛の最後の様子については、こちらの記事でも詳しく解説しております。 /
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西南戦争のその後の影響は?
西南戦争自体は薩摩藩の敗北で終わるわけですが、この戦争はその後の日本に大きな影響を与えています。ここでは西南戦争のその後の影響について簡単に解説していきます。
政府への反対運動が「武力」から「言論」へと変わった?
薩摩軍は当時、国内で最大級の戦力を持っていました。
そのため、その薩摩軍が負けたということは、武力で政府を倒すことは不可能だということの証明になってしまったのです。
また、士族は戦闘のプロとされてきましたが、官軍の徴兵により集められた兵に負けたことにより、士族でなくても戦闘にはなんの問題もないということも示す結果となってしまいました。
以上のことにより、政府に不満をもつ人々は、武力で反対運動を起こすことをやめます。
そして、代わりに言論で政府と戦う、つまり自由民権運動に参加するようになりました。
日本の経済はインフレ状態に?
戦争をするにはとてもお金がかかります。
明治政府はまだまだ経済基盤が確定しておらず、西南戦争の支出はかなり痛いものとなりました。
そこで、政府は紙幣を大量発行することにします。
しかし、今度はそのせいで紙幣の価値が暴落し、インフレ状態に陥ることになってしまいました。
そしてその結果、政府の税収が目減りし、大きな問題となり、1881年に大蔵省のトップとなった松方正義が、「松方財政」というデフレを目指した経済政策を立てるまで続いていきます。
ちなみに、政府が西南戦争のせいで財政難に陥っている一方で、政府に協力した郵便汽船三菱会社(現:三菱)は巨額の利益を上げていました。
そのおかげで、後に財閥となる基盤を作ることに成功したのでした。
まとめ:西南戦争の原因は士族たちの積もりに積もった明治政府への不満だった
明治政府に変わってから、士族たちの待遇は江戸時代のものとは全く違うものになってしまいました。経済的にも、精神的にもダメージをうけた士族たちは、明治政府に徐々に不満を抱くようになっていきました。それが、西南戦争が起きてしまった根本的な原因であったと言えるでしょう。
今回の内容をまとめると、
- 明治政府になってから、士族たちは秩禄処分や金禄公債条例発布などにより、給料が大幅カットされ、経済的に苦しくなった
- さらに、苗字と帯刀の特権も奪われ、精神的にもダメージを負った
- その不満を持った士族たちは、西郷隆盛を頼って集まった
- 隆盛は反乱を起こさせないように私学校を作り、士族たちを統制した
- 火薬庫事件や、西郷隆盛暗殺計画により、士族たちの不満は爆発し、西南戦争へと突入した
- 薩摩軍と官軍による戦いは、官軍の勝利に終わる
- 西南戦争の結果、自由民権運動が流行り、インフレが起こった
西郷隆盛は、戦いを決意した時に
「おいの身体はお前たちに差し上げもんそ」
と言い、戦いの指揮はとらずに、すべてを部下に任せていたそうです。
負け戦だとわかっていながらも、それでも戦わなければこの士族たちの思いは報われることがないことを西郷隆盛は理解していたのでしょうね。