渋沢栄一は大学の設立や教育にも携わっていた!関わった機関とその理由は?
「日本の資本主義の父」と評される渋沢栄一は、幕末から明治と日本が激動の時代の中を駆け抜け、その生涯に500を超える企業の育成に携わり、近代日本の産業経済の礎を築き上げた人物です。
しかし、渋沢栄一が関わったのは企業の育成だけではありません。
渋沢栄一は、教育事業の発展にも熱心に取り組みました。渋沢栄一はその生涯で、なんと160校以上もの教育機関の設立・運用に関わっています。
なぜ実業家である渋沢栄一が、若者の教育に尽力したのでしょうか。
今回は、渋沢栄一の関わった教育事業とその理由に注目していきます。
【注目すること】
- 渋沢栄一は、どの大学や教育機関の設立や運営に関与したか?
- 渋沢栄一が教育事業に関わった理由は何か?
目次
渋沢栄一が設立に携わった教育機関
渋沢栄一は160校以上の教育機関の設立や運用に携わりました。教育対象や分野も、実業教育、女子教育、一般教育など、多岐にわたります。
渋沢栄一が設立に関与した大学や教育機関の中から、抜粋して紹介します。
【渋沢栄一が設立に携わった大学(一部)】
- 「商法講習所」(現在の「一橋大学」)
- 「日本女子大学校」(現在の「日本女子大学」)
【渋沢栄一が設立に携わった、その他教育機関例】
- 「埼玉学生誘掖会」(現在の「埼玉学生誘掖会」)
渋沢栄一が設立に携わった大学
渋沢栄一は数多くの大学の設立に関わりました。その中で現在の一橋大学と日本女子大学について、大学と渋沢栄一の関係に注目していきます。
【商法講習所(現在の一橋大学)】
1875年(明治8年)、森有礼(初代文部大臣)が設立した商法講習所が、東京会議所の管理に移ります。
その際、渋沢栄一は経営委員となります。
商法講習所の授業内容は、英語・商業簿記・算術・欧米の商慣習などの実用性のある、商業教育に関わる教科でした。
幕末から明治初期の教育とは打って変わって、実用性の高い教育です。
渋沢栄一も森有礼も、
「国力を向上させるためには、国家が経済人を育成する必要がある」
と強く考えていたため、このような実用性の高い教育を受けれる機関を設立したのです。
商法講習所は、1876年(明治9年)に東京府に移管されたのち、一度は廃止を決議されます。
その際、渋沢栄一は廃止阻止に尽力たと言います。
その後、国立の大学に昇格し、日本経済発展の原動力となる卒業生を多数輩出しています。
松井証券社長の「松井道夫」や楽天社長の「三木谷浩史」の母校としても有名ですよね。
今でも、一橋大学の図書館には渋沢栄一の胸像があり、温かな微笑みを浮かべて勉学に励む学生たちを見守っています。
【日本女子大学校(現在の日本女子大学)】
1901年(明治34年)に成瀬仁蔵が日本女子大学校を設立します。
渋沢栄一は当初から設立発起人に加わり、創立委員や、会計監査、建築委員、教務委員を引き受けました。
また、渋沢栄一は、学校の運営基金に多大な寄付をしています。
その合計額は27.500円と当時の記録が残っています。
明治時代の1円は、今の3800円くらいに相当するそうですから、今の金額だと1憶450万円となります。
さらに、渋沢栄一が日本女子大学校に寄付したのは、お金だけではありません。
1907年(明治40年)には純洋風の寮を寄付し、自ら晩香寮と名付けています。
また、日本女子大の歴史には、第一回目の運動会の際に自分の別邸の庭を提供した記録や、女子高等教育の重要性を広めるために、成瀬仁蔵と共に地方を巡った記録も残っています。
公私ともに尽力した姿から、渋沢栄一が、非常に女子教育を重視にしていたこと伝わります。
渋沢栄一は亡くなるまで日本女子大学と関わりつづけました。1931年(昭和6年)に90歳の高齢ながら渋沢栄一は日本女子大学校の第三代校長に就任します。
日本女子大学校も学校運営に尽力した渋沢栄一のことを、「私たちの優しいお祖父様」と敬愛し、古稀祝賀会や九十寿祝賀会を催しています。
1931年(昭和6年)に渋沢栄一が亡くなった時には、日本女子大学校は全ての授業を中止して、葬列を全校生徒が沿道でみおくりました。
渋沢栄一が設立に携わったその他の教育機関
渋沢栄一が設立や運営に携わった教育機関は、大学だけではありません。
1902年(明治35年)から、東京都江東区の深川教育委員会の会長を務めています。
また、明治小学校、砂村小学校、滝野川小学校などへ、建設や増築費の寄付をしています。
渋沢栄一が心を寄せて関わったとされる教育関連の事業の一つに、埼玉学生誘掖会があります。
【埼玉学生誘掖会】
埼玉学生誘掖会は、埼玉県出身の上京した学生の支援を目的に、1902(明治35)年に発足した組織です。寄宿舎の設置や、奨学金の貸与などの育英事業を目的としています。
渋沢栄一は当初、この育英会事業の設立には消極的でした。
「埼玉県出身の渋沢さんは同郷なのに冷淡だ」
と、そんな渋沢栄一の姿勢に対して、学生などから不満が出てきます。
そして、1900年(明治33年)学生などの不満を代弁する形で、埼玉出身の本多静六(日本初の林学博士「日本公園の父」)が栄一邸を訪問します。
育英会の設立の資金援助を求める本多静六に対し難色を示したといいます。
渋沢栄一は本多静六に対して、
「筆頭となる人がまず自分でお金を出すべきでは?自分では出さずに、他の人に無心に来るなんて、頭から間違っています。」
と厳しい言葉を発したそうです。
すると本多静六は、腹巻に入れてきた自前の300円を渋沢栄一に差し出し、これを会設立基金とする意志と強い覚悟を示しました。
当時の300円は今の100万円以上に相当する大金です。実際に本多静六の年収の三分の一にあたる金額だったそうです。
渋沢栄一は、本多静六の誠意ある行動を信頼し育英会の支援を約束しました。
なぜ渋沢栄一は、当初、育英会設立を承諾しなかったのでしょうか?
その理由について渋沢栄一は、
「自分が出資して育英会を設立することは簡単です。しかし、多くの人の熱意を得ていない事業は、維持できず、逆に悪影響を与えかねないと考えたから」
との記録が残っています。
渋沢栄一は、社会貢献的な事業こそ継続しつづけることが重要であるとの信念を持っていました。そのためには、当事者が自分達の力で動く熱意が不可欠としたのです。
渋沢栄一は、本多静六が本当に設立へ向けて熱意があるかを見極めていたというわけですね。
支援を約束して以降、渋沢栄一は本多静六ら共に、埼玉学生誘掖会の設立に尽力します。
そして、1902年(明治35年)の埼玉学生誘掖会を発足時から、亡くなるまで渋沢栄一はこの会の会頭であり続けました。
それは、名前だけの役職ではなかったそうです。
多忙な生活の中、時間ができると学生寮を訪れ、夕食を共に語り合ったりして、学生たちとの積極的に交流していたそうです。
設立時からの一連のこのエピソードは、渋沢栄一の人柄を実に感じられますね。
渋沢栄一は大学を始め数々の教育機関に携わったのか?
起業家の渋沢栄一が、なぜこんなにも熱意をもって教育機関の設立・運用に携わったのでしょうか?
渋沢栄一が教育事業に乗り出したきっかけと、教育事業に対する、渋沢栄一の思いをみていきましょう。
渋沢栄一が教育事業に乗り出したきっかけ
渋沢栄一が教育事業に乗り出したきっかけの一つは、渋沢栄一が27歳の時に、徳川幕府第十五代将軍の徳川慶喜の弟である徳川昭武のパリ万博見学への随行と遊学をしたことでした。
渋沢栄一はその時、欧州諸国の実情を肌で感じています。
この経験をもとに、
「国家独立の基礎は経済の富強です。そのためには国家規模での経済人の育成が不可欠です。」
との信念を持ったのです。
渋沢栄一の教育にかける想い
渋沢栄一の教育にかける想いはどのようなものだったのでしょうか?
当時の日本では、東大を初めとする旧帝大の官吏養成を重視する傾向があったようです。しかし渋沢栄一は、当時の世の中の主流とは異なる視点から国力向上を目指しました。
主に民間の経済発展を担う人材養成を重視したのです。
こうしてできたのが、実用的な簿記や英語などの商業教育を学ぶことができる商法講習所(現在の「一橋大学」)でした。
また、渋沢栄一は女子教育にも熱心に取り組みました。
渋沢栄一は、
「家庭を守る女性(母親)が教養を持つことで、子どもの教育レベルも自然と上がり、国力も向上する」
と考えていたようです。
当時は、まだ女性は家の付属物との意識が根強かった時代です。
渋沢栄一が設立に携わった「日本女子大学校(現在の日本女子大学)」の教育方針は、「第一に女子を“人”として教育すること」からはじまっています。
当時の女性の社会的立場が非常に低かったことが伺えるとともに、渋沢栄一がいかに先を見通せていた人物であったかを感じられます。
また渋沢栄一は
「人々の生活を経済的に心配のないものにして,さらには豊かにして,皆を幸せにすること」
が自身の天命であるとの思いも持っていたようです。
渋沢栄一が、教育活動に熱心に取り組んだ根底には、
「男女関係なく、国民みんなが幸せな国にしたい」
との熱い思いがあったのですね。
渋沢栄一とは一体どんな人だったのか、こちらの記事にも詳しくまとめてあります。
渋沢栄一はどのように教育機関に携わっていた?
渋沢栄一は、設立時の発起人としてだけ教育機関に関わっていたわけではありません。運営委員だったり、講演を行ったりとさまざまな形で教育機関に関わっていました。
渋沢栄一は、学校の設立発起人や出資者として関わっていた
渋沢栄一は、学校が設立される際の発起人として関わっていました。
日本女子大学校では設立委員となっていますし、建設時に多額の寄付をしています。
渋沢栄一は、学生の環境整備にも尽力していた
渋沢栄一は、学生の環境整備にも熱心に取り組みました。
日本女子大学校では、西洋風の寮「晩香寮」を寄贈していますし、埼玉学生誘掖会でも会頭として埼玉から上京した学生たちの寮を立てたり、奨学金の支援を行っています。
渋沢栄一とは一体どんな人だったのか、こちらの記事にも詳しくまとめてあります。
まとめ:渋沢栄一は、大学設立をはじめ数々の教育事業にも熱心に携わっていた
渋沢栄一は、商業教育や女子教育の重要性を早いうちから感じ、大学設立をはじめ、様々な教育事業の発展に尽力しました。
今回の内容をまとめると、
- 渋沢栄一は商業教育を重要視し、実学的な内容が学べる大学の設立に尽力した。
- 渋沢栄一は、学生を支援する活動にも尽力していた。
- 渋沢栄一が教育活動に熱心に取り組んだ背景には、国力を向上させたいというゆるぎない信念があった。
渋沢栄一は、多忙な毎日を過ごしながらも、学生寮を訪れたり、学生の悩みを聞いたりしたといいます。
現代では、当たり前となっている男女平等に教育を受ける権利が、まだ当たり前ではなかった時代から、女性の教育にも力を入れていた点など、渋沢栄一は教育の父とも呼べるのではないでしょうか?